「新世紀映画論」(第3回) 林海象
かなり間が空いてしまいましたが、林海象「新世紀映画論」(第3回)を 始めます。よろしくお付き合いのほどを。
前回、私は以下のように映画史を断定した。
映画は人類が発明してから、何と! 130年足らずで完成した。
1983年 エジソンのキネトスコープの発明から122年。リュミエール兄弟が 1895年3月パリで開催された科学振興会でシネマとブラフを公開してから120年である。
その間に映画の技法は大いに発展し、白黒無声→白黒トーキー→カラートキーへと変化し、画面サイズも1:1.37スタンダードサイズ→1:1.66ビスタサイズ→1:2.55 シネマスコープ→と横へと巨大化ていった。
音も無声→アナログ→ステレオ→ドルビー/ 5.1ch〜7.1ch / THXなどなどと音質音域を向上させ、そして映画史において最大の変化であるフィルムからデジタルへの移行が21世紀初頭に起こり、それにともなってコンピューターによる画像処理(CG/VFX)が加速度的に発展し、今や私たちが目にする映画は、120年前の人々が観ていた映画と、その姿はまったく違う ものになってしまった!
映画はその芸術娯楽領域の中で革命的速度で進歩し完成したのだ! と叫びたいところであるが、そうは問屋が卸さない。
映画は 122年かけて完成したのではなく、実は100年前すでに完成していたのである。
映画は人類が発明してから、実は! 100年前に完成していた。
私は15年ほど大学で映画を教えているが、学生たちによく見せる映画がある。
それは1915年(100年前)に造られたチャップリンの「拳闘」という無声映画である。
放浪者チャーリーが、ボクサー募集の張り紙を見つけ、空腹を満たすためについふらふらと応募して、ついにはチャンピオンになるというドタバタ喜劇である。
この映画を見せる前に、私は必ず「映画はこの映画の20年前に発明されて、当時映画は人々にとって魔法のような発明であり、例えばリミュエール兄弟の「ラ・シオタ駅への列車の到着」1896年のように、画面の中に列車がやってくるだけで、人々は本物の列車がやってきたかと錯覚し、恐れおののき逃げ惑った」と説明する。
そして「その当時の人たちは、僕たちが見ている映画とは違う感覚で映画を観ていたはずで、その衝撃は今となっては計り知れない。
その後映画は物語を必要としはじめ、映画発明の20年後にはこんな映画が作られるようになった。
無声映画という言葉もなく白黒映画で君たちにはきっと退屈極まりない映画だと思うが、とにかく見せるね」と付け加え上映を始める。観ていた学生たちは最初、えっ色がないの! セリフが字幕じゃん!
とか思って仕方なく観ているが、そのうちに学生たちから漏れだすクスクス笑い。
そして突然沸き起こる大爆笑。
そうなったらもうこちらのもので、大爆笑の連続で30分程度の映画は上映を終わる。
この映画は違う学生たちにも何度も見せたが、毎回結果は同じ。一度、高校生たちに前置きなしで見せたが、その時も大爆笑の連続だった。高校生たちはチャップリンのことなど何も知らないが、そのチャップリンを「とても可愛い」とすら言っていた。
つまりチャップリンのこの短編映画を観た現代の学生たちは、この映画を観たであろう100年前の観客とまったく同じ反応を今もみせたのである。
以上のことで私が何が言いたいのかというと、
100年前の映画が、今も私たちの心を動かす!
ということであり、それは映画が100年前に今の形を完成させていたことに他ならない。
1896年(119年前)の「ラ・シオタ駅への列車の到着」を観た現代の学生は「ああ列車が来たんだなあ。これの何が面白いの?」と思うが、1915年(100年前)のチャップリンの「拳闘」では、今の映画と同じ、またはそれ以上に映画に興奮し、映画に心奪われる。
それはどういうことかというと---
映画は人類が発明してから、実は! 100年前に完成していた。
ということの証明であり、言い換えると、
映画は100年前に完成され、それからまだ進歩していない。
ということに結論づけられる。
映画はこの100年で技術的には大いなる発展と進歩を遂げ、多くの監督と映画人たちによって数多の映画が造られてきた。
映画において人類はこの100年間努力に努力を重ね、より新しい映画を造りに造り、映画発明期の映画たちよりは遥か遠く、クリストファー・ノーラン監督「インターステラー」のように、遠く宇宙に離れに離れていったように思えるが、映画はまだ100年前のそこにいる。
「インターステラー」でブラックホールに飛び込み時空を超えても、主人公がまたもとの地球へ帰ってきたように、映画は未だ100年前のそこにいるのだ。
次回第四回は、リミュエール兄弟「ラ・シオタ駅のへの列車の到着」
1895年と、今話題の「マッド・マックス〜怒りのデスロード」が、12
0年の時を隔てても同じ映画であることを検証する。