クイーンのコンサートの舞台裏
フレディたちが最後に来日したのが1985年5月。30年以上も前なのですね。以来、iPodで一番良く聞くグループの一つではあるものの、クイーン、そしてフレディは私にとって長い間、記憶も定かではない遠い存在でした。ところが、大ヒット中の映画『ボヘミアン・ラプソディ』の公開に先立ち、クイーンのファンの間ではつとに有名な、フレディが来日する時には必ずボディガードを勤めていた伊丹さんと、劇場用パンフレットで対談をする事になりました。それを読み、私が映画専門のエンタメ通訳だと思っていた方は、少々驚いたようです。
「音楽の仕事もやっていたんだ」
「そうですよ」
この連載の最初に書きましたが、私が国際会議の同時通訳を生真面目に目指して勉学に励んでいた(と自分では思い込んでいた)時、通訳学校の同級生のピアニストのお姉さんの紹介で、ピンクフロイドの通訳の話が舞い込みました。3歳の時からバイオリンを習い、まったく上達しませんでしたが大学時代は一応オーケストラ部に所属していた私は譜面が読めたので、お声が掛かったのかなあ。譜面が読める事はその後、音楽関係の通訳として重宝されました。趣味は身を助けるですね。
さて、本題のフレディ。
ピンクフロイドに始まりディープパープルと続き、T-Rexでサウンドエンジニアの夫の信ちゃんに出会い職場結婚。そんな流れの中で、クイーンのツアーに合計5回付き合いました。初来日には縁がありませんでした。仕事仲間と武道館に、コンサートを覗きに行ったのは憶えています。ですが、どのような経緯で私にクイーン・ツアーの通訳のまとめ役が回って来たのか。忘れてしまいました。
ピンクフロイドはあまり、当時詳しくは知らないミュージシャンでしたが、さすがにクイーンについては知っていました。1970年代後半から80年代は、ロックの時代。クイーンの他プリンス、チープトリック、ジェームス・ブラウンなど、いくつものグループとのツアーを経験しました。
クイーンほどのサイズのツアーにはアーチストを中心に、事務方(マネージャー、弁護士、お友達と称する取り巻きなど)と現場方(舞台監督を中心に音響・照明・舞台・衣装メークなど)の二つにグループが大きく分かれ、それぞれがまた、アーチスト側と日本側に分かれるので、少なくとも5人の通訳が必要となります。50人以上の大所帯ですから、新幹線の移動では一車輌貸切りが一般です。宿泊ホテルも事務方と現場方が同じである事はまずありません。クイーンも分かれて宿泊していましたが、私の印象だとみんなめちゃ仲が良く、まるで一つの劇団のような行動パターンだったと思います。
映画にも登場したポール・プレンターがいつもフレディの影のようにぴったりくっついていたので、フレディと二人だけで話しをした事をはっきり覚えているのは、5回ツアーの仕事をしたのに、3回だけです。対談でも話をしましたが、1回は、北海道の炉辺焼きの店の事でした。
フレディが胡坐を組み語った“日本の本”
その夜は弁護士のジム・ビーチたちが仕事で東京に戻っていたからでしょう。比較的少人数で夕食を食べに行く事になりました。いつもは車で移動するのですが、近いから歩いて行こうとメンバーの誰かが言い出し、札幌の夜の街へと歩き出しました。電車の高架下を通り、雑踏の中で信号待ちもして、雑居ビルにある炉辺焼きの店に到着しました。メンバーは炉辺を囲む畳の座布団の上に座り、楽しそうでした。
フレディは慣れた様子で胡坐を組みます。
メニューはもちろん日本語のみですから、通訳の私がフレディの脇に走り寄り、料理の説明をします。オーダーが終わり、いつもならスタッフ席へと戻るのですが、みなさんはもう飲み始めていて、空いている席はフレディの左斜めの座布団だけでした。一瞬戸惑いましたが、空の座布団の上に座りました。「まあいいか」。
フレディは右側に座っていたポールと話をせず、しばらく手酌で酒を飲んでいたと思います。そしてふと、前後の脈絡なく尋ねたのです。炉辺焼きを囲む座布団に上に胡坐をかくことで、日本に造詣の深いフレディ、自分もちょっと侍になったような気分だったかな。
「あなたは五輪書を読みました」
突然の問いに、一瞬何の話をしているのか訳が分かりませんでした。私が答えないでいるので、言い直しました。”The Book of Five Rings by Miyamoto Musashi”
ムサシ・ミヤモトではなく、きちんとミヤモト・ムサシと言ったと記憶しています。それで、宮本武蔵の「五輪の書」について聞いているのだと気付き、「読んではいませんが、中学校の教科書に載っていたので本の名前は知っています。彼については有名な本(吉川栄治作『宮本武蔵』)を読んだことがあるので、よく知っています」と答えました。するとフレディは「宮本武蔵は背後から来る人間の気配を感じることが出来るので、後ろから切りつけられても自分の身を守ることが出来る・・・」と話をし始めたので、私は人の気配を感じ取った武蔵が炉辺の鍋の蓋を素早く掴み、体を後ろに捻りって「ハッシ!」と刀を受け止めたという、本で読んだか、漫画か何かで見たかのエピソードを思い出し、自分でも体をフレディの方へと捻り、空に右手を上げました。
近づけば感じるだろうが、柱の後ろに近づいても分かるというけれど、本当に、そんな事が可能だと思うかい」と3メートルほど離れた柱を指してさらに質問するので、「武道をやっている人はみな人の気配にとても敏感だから、絶対に分かると思う」と答えました。「音にもとても敏感だと思う」
それから武士道精神についていろいろ聞かれ、会話が続きましたが、しばらくするとポールが割り込んできて、会話は突然途切れました。
次は、いつもフレディを肩にのせて舞台に登場する大男の取り巻きの一人とフレディの三人で、新宿に出かけたときのエピソードを。なぜ伊丹さんが同行しなかったか。謎です。
小林禮子 (通訳・翻訳者)