「一冊の小説が、あなたの手で映画になるかもしれません。」

編集部に届いた、ある一編の小説。
それは誰の目にも触れていない、まだ名前のついていない物語です。

ただひとつ、はっきりしているのは――
この物語には、映像化の可能性がある。
そしてその第一歩が、「あなた」によって踏み出されることを、私たちは願っています。

今回募集するのは、この小説をもとに映像用のシナリオを書き起こすクリエイター。
物語にインスピレーションを受け、自分の感性で再構成し、スクリーンの上で輝かせる。
そんな創作に情熱を持つ方を探しています。

小説の第1章は、以下からすぐにお読みいただけます。
あなたが感じた“映像のイメージ”こそが、最初の一歩になるかもしれません。

さあ、ページをめくってみてください。
そして自分に問いかけてみてください――
「この物語、私ならどう映画にするだろうか?」と。

第一話「夏の記憶」

横浜の街で育った吉岡美咲は、小学校6 年生の夏休みに初めてサーフィンにそして、あの人に出会った。

友達からもらった2 日間の教室のチラシを手に、「お母さん、私、サーフィンやってみたい!」

最初は心配した母親も、ライフセーバーが直接指導してくれると知って、安心した。

湘南の海。太陽の下、波は穏やかにビーチに打ち寄せていた。初めての体験に緊張していた美咲はコーチを待つ。そして現れたのは、爽やかな笑顔の青年だった。

「佐藤陽一です。2 日間、楽しくサーフィンを学んでいきましょう。」

26 歳の陽一は、夏の間このビーチでライフセーバーとして働きながら、子供たちにサーフィンを教えていた。日に焼けた健康的な肌と、凛とした眼差しが印象的な青年で、優しそうな表情に美咲はすぐに安心感を覚えた。

「では、まずは砂浜でボードの扱い方から練習していきましょう」

陽一の指導は丁寧だった。ボードの上で姿勢を保つ練習から始まり、パドルの方法、波のタイミングの読み方まで、一つ一つ段階を踏んで教えてくれる。その優しい声と温かい眼差しに、美咲の緊張は少しずつほぐれていった。

「基本動作はOK ですね。実際に海に出てみましょうか」

美咲は小さくうなずいた。心臓は高鳴っていたが、陽一が側にいてくれるという安心感が、後押ししてくれた。

しかし、実際の海は教科書通りにはいかなかった。小さな波に乗ろうとした瞬間、バランスを崩した美咲は海に投げ出された。予想以上の衝撃に驚き、パニックになった彼女は必死で手足をばたつかせた。塩辛い海水が口に入り、息ができない。その時、強い腕が彼女を掴み、水面に引き上げた。

「大丈夫だよ、もう安全だから」

陽一の声が、波の音の向こうから聞こえてきた。その腕の中で、美咲はようやく落ち着きを取り戻した。動揺する美咲を落ち着かせようとする陽一。思いやり、彼女の心に染み込んでいった。

その瞬間、12 歳の美咲の心に、何かが芽生えた。それが恋心だと気づくまでに、さほど時間はかからなかった。

「ありがとうございました。」自分の本心を隠すようにお礼を言う美咲だった。

「大丈夫、誰でも最初は失敗するんだよ。それより、よく頑張りました」

陽一は優しく微笑んだ。初日のレッスンは、終わった。

二日目のレッスンの日、美咲は思い切って陽一に手紙を渡した。

「あの、これ...読んでください」

そう言って、美咲は深々と頭を下げ、そのまま走り去った。手紙には、感謝の言葉と、引っ越すことになったこと、そして...彼女なりの精一杯の気持ちが遠回しな書き方で綴られていた。

その夏、父親が転勤となった。

横浜を離れた後も、美咲の心には陽一の面影が宿っていた。中学生になり、高校生になっても、夏が来るたびに湘南の海を思い出した。あの日の出来事は、彼女の心の中で特別な思い出となっていた。

高校を卒業する頃、横浜の大学に進学することを決めた。もちろん、進学先を決める理由は将来の夢を叶えるためだけではなかった。心のどこかで、あの海に、あの人に、もう一度会いたいという思いがあった。

そして、大学1年の夏。

19 歳になった美咲は、久しぶりに湘南の海を訪れた。期待と不安が入り混じる中、彼女は懐かしい浜辺を歩いた。ライフセーバーの詰所は、7 年前と変わらない場所にあった。

そして、彼女の目に見覚えのあるシルエットが飛び込んできた。

時が止まったかのような感覚。まさか、本当に会えるなんて。

陽一だった。33 歳になった彼は、少し大人びた印象になっていたが、間違いなく彼だった。相変わらずライフセーバーの制服を着て、浜辺に立っている。

美咲の心臓が大きく跳ねた。声をかけるべきか躊躇う。きっと自分のことなど覚えていないだろう。あの時の小学生の一人を、どうして覚えているだろうか。でも、ここまで来て何もせずに帰るのは後悔すると思った。

深呼吸を何度もして、美咲は彼に近づいていった。

「あの...また、サーフィンを教えていただきたくて・・・。佐藤さん...ですよね?」

陽一は振り返った。彼の目に戸惑いの色が浮かぶ。

「私...7 年前に、ここでサーフィンを習った者です。その時、波に飲まれそうになって...最後に手紙を渡して...」

言葉が途切れる前に、陽一の目が大きく見開かれた。

「ああ!吉岡さん...美咲さん?」

美咲は息を呑んだ。まさか名前まで覚えていてくれるとは。

「はい...覚えていてくださったんですね」

「うん。あの手紙、大切に持っているよ」

陽一はそう言って、少し照れたように視線を海に向けた。

「横浜に戻ってきたの?」

「はい。大学に進学して...」

「そうか...」

陽一は美咲をじっと見つめた。その眼差しに、美咲は顔が熱くなるのを感じた。

沈黙が流れる。波の音だけが、二人の間を満たしていた。夕暮れの太陽が、ゆっくりと水平線に沈もうとしている。

「よかったら...」

陽一が躊躇いがちに口を開いた。

「そこのカフェでお茶でもどうですか? 話したいことが...たくさんあるんです」

美咲の胸が高鳴った。12 歳の時に感じた、あの懐かしい感覚が蘇ってきた。でも、今度は違う。大人になった二人の間に流れる空気は、7 年前とは明らかに違っていた。

「はい、ぜひ」

二人は、夕暮れの浜辺に佇むカフェに向かった。西日に染まる海を背に、7 年の歳月を埋めるように、ゆっくりと歩を進めた。

その夏の夕暮れ、潮風に吹かれながら、二人は新しい物語を紡ぎ始めようとしていた。子供の頃の淡い恋心は、大人の感情へと静かに変わりつつあった。

波は相変わらず浜辺に打ち寄せ、二人の背中を優しく押していた。あの日、波に揺られた少女の想いは、7年の時を経て、ついに相手の心に届こうとしていた。

第2話 「新しい道」

湘南の海は、いつも佐藤陽一の心を癒してくれた。26 歳。大手商社のM&A 部門で働く若手社員としては、順調なキャリアを歩んでいるはずだった。しかし最近、彼の心は次第に揺れ始めていた。

三鷹のカトリック系大学で培った英語力を活かし、国際的なM&A 案件を手掛ける日々。周りからは羨ましがられる仕事だったが、パソコンの画面に並ぶ数字の羅列に、陽一は次第に虚しさを覚えるようになっていた。

「今週末も海なの?もう、いい加減にしてよ」

休日出勤を終えて恵美と待ち合わせた夜景の綺麗な渋谷のレストラン「バルコニー」で、また同じ会話が繰り返された。

恵美は同じ大学の同級生で、外資系レコード会社で働いている。長身で知的な美貌の持ち主だった。恵美は頭の回転が際立って速く、大学の成績はトップクラスだった。どちらかと言えば男性的な性格で、陽一が恵美に惹かれたのは、外見よりもその積極的で、ややもすると攻撃的な性格だった。

恵美は、祖父がイギリス人のクォーターで、その外見故に、いつも男性からアプローチを受けていた。

恵美の実家は、神戸で祖父の代から貿易商を営む裕福な家庭で、恵美は小学生から神戸のインターナショナル学校に通っていた。

陽一は、恵美をデートに誘うおうと思って、大学の食堂で、友人の食事をしている恵美に近づいてデートを申し込んだ。「恵美さん、一度食事にお付き合いくださいませんか?僕はあなたの事を知りたいと思います。あなたの事をもっと知ったうえで、交際を申し込みたいと思っています。」

ストレートにしかも皆の前で、デートを申し込まれた恵美は、目を丸くして、そして友人たちも驚いて、陽一を見ていた。

「あの、ご迷惑でしょうか?」と陽一。

最初驚いていた恵美は、しばらくたっていたずらっぽい微笑みを浮かべ始めて、「いいですよ。いつにしましょうか?」男性に冷たい恵美がデートの申し込みを受けたことに、周りの友人たちは驚いていた。

こうして、陽一と恵美との交際が始まった。

付き合い始めて4 年がたったころ、結婚という言葉も、二人の間で時折交わされるようになっていた。

「ライフセーバーの仕事は、僕にとって大切なんだ」

「でも、それじゃ将来が不安よ。私たち、そろそろ真剣に将来のこと考えないと...」

恵美の言葉には一理あった。しかし、陽一の心は既に別の方向を向き始めていた。

週末のライフセーバーの仕事は、陽一にとって単なる趣味以上の意味を持つようになっていた。人の命を直接救う。その実感は、数字の上でしか成果を感じられないM&A の仕事とは、まったく違う充実感があった。

「実は...考えていることがあるんだ」

ある日、陽一は恵美に打ち明けた。商社を辞めて、ライフセーバーになりたいと。

「冗談でしょう?」

恵美の声は冷たかった。

「ライフセーバーだけじゃ、まともな生活もできないわ。私、貧乏な人とは結婚できないの」

その言葉が、二人の間に深い溝を作った。

しかし、陽一の決意は固かった。ライフセーバー専業になる準備として、まずは子供向けのサーフィン教室のコーチを始めることにした。少しでも収入の道を増やしておきたかったのだ。

そして、その教室での最初の生徒が、吉岡美咲だった。

小学6 年生とは思えない落ち着きのある佇まい。少し緊張した様子で、新しいウェットスーツに身を包んでいた。

「大丈夫、ゆっくり進めていきましょう」

自然と優しい言葉が口から出た。緊張している少女の表情が、少しずつ和らいでいくのを見て、陽一は不思議な安堵感を覚えた。

波に飲まれそうになった美咲を助け上げた時、その小さな体が震えているのを感じた。しかし、その後の彼女の頑張る姿に、陽一は心にふんわりとした不思議な感覚を覚えた。

「ありがとうございました」

2 日目のレッスンが終わったとき、彼女は澄んだ瞳で真摯に陽一にお礼の言葉を投げかけた。

陽一ライフセーバーの仕事を続けていこう。海の楽しさを人々に伝えていきたい、と強く感じた瞬間だった。

二日目のレッスンが終わった時、美咲は恥ずかし手紙を持ってきた。そこには自分は転校することになって、もう佐藤のレッスンを受けることができないこと、2 日間のレッスンに対しての感謝の気持ちが綴られていた。控え目な書き方だったが、純粋な気持ちが込められていた。

そして、次の週予期していた恵美との別れの日が訪れた。

「私、結婚することになったの」

休日、恵美に呼び出されたレストラン「バルコニー」で、彼女は告げた。相手は40 代の美容歯科医。裕福な暮らしが約束された相手だった。

「そう...」

5 年の恋愛に終止符が打たれる瞬間。陽一の心は確かに痛んだ。しかし、それ以上に、ある種の解放感があった。

二人の価値観の違いは、どんなに時が過ぎても埋まることはなかったのだろう。恵美は自分の選択をし、陽一もまた、自分の道を選ぼうとしていた。

その夜、陽一は一人で浜辺に立っていた。波の音を聞きながら、これまでの人生を振り返る。商社マンとしての安定した生活を捨て、ライフセーバーとして生きていく。普通に考えれば無謀な選択かもしれない。

しかし、美咲にサーフィンを教えたときに感じた、海のすばらしさを人々に教える仕事の幸せ、海に来た人に安心を届けることの喜び。海への純粩な感謝の気持ち。波音を聞きながら、陽一はのこころに静かにこのような思いが浮かんだ。この選択が正しかったのかどうかは、まだわからない。でも、少なくとも自分の心に正直に生きていける。そう感じた夜だった。

陽一のコーチ初日の生徒美咲。大人びた幼い生徒が、自分の人生にとってかけがえのない存在になることを、陽一はこの時考えもしていなかった。

第3 話 「波の音と共に」

夕暮れの浜辺に佇むカフェで、美咲は自分の声が少し震えているのを感じていた。目の前には7 年ぶりに再会した陽一が座っており、優しく微笑みながら彼女の話に耳を傾けている。

「父の転勤で、札幌に引っ越してからは、さすがに寒くてサーフィンはできませんでした」

美咲は緊張を紛らわすように、自分の過去を話し続けた。窓の外では波が静かに打ち寄せ、夕陽が水平線に沈もうとしていた。

「北海道での生活、最初は全然慣れませんでした。冬に降る雪も住んでみると、とても大変で・・・。でも、中学に入学してからは北海道のダイナミックな自然がだんだん好きになりまそした」

陽一はコーヒーカップを手に、うなずきながら美咲の話に聞き入っている。その優しい眼差しは7 年前と変わらず、それが美咲の心を落ち着かせると同時に、胸を高鳴らせた。

「高校では山岳部に入ったんです。海で自然を楽しむように、山で自然を楽しみたいと思いました。山に登ると何だか心が洗われるような感覚がありました」

美咲は高校時代の思い出を語りながら、その頃も時々、湘南の海を思い出していたことは言わなかった。登山が波のリズムを思い出させることも。

「勉強は頑張ったので、担任の先生は地元の国立大学を勧めてくれたんですが...」

言葉を少しよどむ。横浜の大学を選んだ理由の一つに、もしかしたら陽一に会えるかもしれないという密かな期待があったことは、言えなかった。「私、教育学部に進みたいと思って...子供たちに何かを教えることに興味があったんです」教育学部がある今の大学を選びました。

そう言いながら、美咲は心の中で思った。その気持ちが芽生えたのは、あの夏のサーフィンレッスンがきっかけだったことを。陽一の教える時の笑顔が心に残っていたことを。

「素晴らしい選択だと思います」

陽一は言った。彼の目は真摯に輝いていた。

「教えることって、本当に素晴らしい仕事です。人の成長に関われることほど、やりがいのあることはないと思います。美咲さんはなにの先生を目指しているのですか?」

「高校の物理の教師を目指しています。」

「へー、美咲さん理系女子なんだ」

「数学とか物理とか好きです」

「僕は全然だめだなー、理数系」と笑う陽一。

陽一と話していると、本当に楽しい。

美咲は自分の気持ちを伝えたいという思いと、恥ずかしくて言い出せない思いとで、頭はぐるぐる回っていた。

「実は...私も変化がありました」と陽一。

陽一が静かに語り始めた。商社を辞め、ライフセーバーとして生きる決意をしたこと。人命救助と安全教育に携わる NPO をライフセーバー仲間と立ち上げたこと。ライフセーバーに欠かせないパドルボードの普及に力を入れていることなど。

美咲は陽一の話を聞きながら、憧れと同時に尊敬の念を抱いた。

夕暮れが深まり、店内の照明が温かな明かりを放ち始めた。美咲は、この時間がすぐに終わってしまうことが寂しかった。もう少し、もう少しだけ一緒にいたい。

「あの...佐藤さん」

勇気を振り絞って、美咲は切り出した。

「もう一度...サーフィンを教えていただけませんか?」

言い終わった瞬間、頬が熱くなるのを感じた。大学生になって今さら、お願いするのは変だと思われないだろうか。

「あと、できれば、パドルボードも教えてくれませんか?」陽一が情熱を傾けるものに触れてみたいという思いだった。

「もちろんです」

陽一の返事は想像以上に早く、温かだった。

「今度は絶対に波に乗れるように、サポートします」「パドルボードは最初は漕ぐのがきついけど、美咲さんが挑戦したいと言ってくれたこと、とてもうれしいです。」

その言葉は、美咲は心にストレートに響く。7 年前、波に揺られて芽生えた想いは、彼女の心にしっかり生き続けていた。そしてそれは、もう子供の頃の淡い憧れではない。大人になった今、リアルな想いとして陽一にぶつけてみたい、そして、その思いを受け取ってほしいと美咲は感じていた。

カフェの窓の外で、波は相変わらず優しく打ち寄せていた。美咲はこれから二人はどうなるのだろうと、不安と期待が入り混じった、思いで夕暮れの波の音を聞いていた。

第4 話「心の波」

木曜日の夜、美咲は来たる土曜日のサーフィンレッスンのために用意したウェットスーツを見つめていた。陽一に会える日が近づくにつれ、心臓の鼓動が少しずつ早くなっていくのを感じる。

毎週土曜日の午後、大学の講義が終わるとすぐに湘南へ向かう電車の中で、美咲は窓の外の景色を眺めながら、期待を噛みしめていた。サーフィンの上達も嬉しかったが、それ以上に陽一と過ごす時間が、彼女にとってかけがえのないものになっていた。

レッスン後の夕暮れ時、二人は決まって海沿いのレストランで食事を共にした。窓際の席から見える夜景が美しく、波の音が心地よいBGM のように響く。美咲は学校での出来事や、子供の頃の思い出、将来の夢などを語った。陽一はいつも聞役だった。いつも温かな眼差しで耳を傾けてくれた。

「私、小さい頃は本屋映画が好きで、一日中本を読んだり、家で映画を見て過ごすのが好きだったんです」

「へえ、どんな本を読んでたの?」

「冒険物語が好きでした。主人公が新しい世界に飛び込んでいく物語...そして主人公が成長する話が好き。映画だと例えば、スターウォーズのレイとか・・」

「そうか、美咲ちゃんの年だと、スターウォーズというとレイになっちゃうんだ。僕なら、ルークを思い浮かべてしまうな。あ、ルークはレイの先生ね。」

「Star Wars の原作者のジョージルーカスは、物語の作り方をアメリカの神話学者のジョセフキャンベルから教わったんだ。面白い話は常に、神話の話の作り方になっているってね。で、キャンベルは『面白い話は、いつも主人公が成長していく話』だと言っている。例えば、毀滅の刃も炭次郎が成長していく話だし、NHK の連ドラや大河も主人公が成長していくから面白い」

陽一と話していると、とっても楽しい。陽一は博学で、何でも知っている。美咲はどんどん陽一に心を奪われていく自分が怖かった。

レッスンを始めて3 週目の土曜日。いつものように食事を終え、美咲が店を出ようとした時、陽一は美咲の手を素早く握って手をつないだ。突然の出来事に、美咲は小さく「えっ」と声を上げ、驚いた表情で陽一を見上げた。陽一は真っ直ぐに美咲の瞳を見つめ、静かに言った。

「好きだよ」

その言葉の意味を理解するまでに、数秒かかった。美咲の心の中で、その意味がしみこんでいった。彼女は強く陽一の手を握り返し、自然に陽一に近づき、軽くキスをした。なぜ、自分がキスできたのかわからない。ほんの一瞬の出来事だった。

陽一は聡明で素直な美咲を大切にしたいと思い、性急にではなく、しばらくは一夜を共にするのは控えようと思っていた。

毎週の土曜日は、二人にとってさらに特別な時間となった。サーフィンを教えるコーチと生徒という関係から、恋人同士へとなり、二人は変わらずサーフィンをして、夕暮れの食事を共にした。

徐々に陽一も自分の話を始めるようになった。

「実は、美咲と出会った頃、僕は恋人と別れたばかりだったんだ」

夕暮れの海を見つめながら、陽一は静かに語り始めた。

「8 年付き合った人だった。でも、僕がライフセーバーになると決めたことで...収入の問題もあって、別れることになったんだ」

美咲は黙って陽一の言葉に耳を傾けた。

「サーフィンのコーチを始めたのも、正直、収入の足しにするためだった。でも...」

陽一は美咲を見つめながら言った。

「今は違う。海の素晴らしさを伝えたい。この広大な自然の中で、人は本当の自由を感じられる。そんなことを、皆に知ってほしいんだ」

そして必ず、最後にこう付け加えた。

「海を愛しているように、美咲のことも愛してる」

その言葉に、美咲の心は毎回大きくときめいた。純粋で、誠実で、強い意志を持った陽一への想いは、日に日に深まっていった。

ある夜、美咲は決意した。この人と心も体も一つになりたいと。食事を終えて店を出る時、いつもとは違う強さで美咲から陽一の手を握った。その仕草に込められた想いを、陽一は静かに受け止めた。その夜二人は波の音が聞こえるホテルで結ばれた。潮騒が二人の愛を祝福していた。

第5 話「潮騒の向こうへ」

金木犀の香りが漂い始めた10 月の週末。美咲と陽一は、いつものように湘南の海で過ごしていた。二人が結ばれてから、この週末のサーフィンは単なるレッスンではなく、かけがえのない二人だけの時間となっていた。

陽一がライフセーバーの仕事を終える午後4 時。その時間になると美咲の心は高鳴り、陽一の姿を探して浜辺を見渡す。彼が波に乗る姿は力強く美しく、そんな彼を見つめているだけで幸せな気持ちに包まれた。

「今日の波、けっこう良いよ」

陽一は笑顔で美咲に声をかける。その横顔が夕陽に照らされ、一層凛々しく見えた。美咲は少し照れながらも、嬉しそうにボードを抱えて波に向かう。

「美咲の乗り方、随分上手くなったね」

陽一は誇らしげに美咲を見つめた。華奢な体つきながら、波に乗る姿は日に日に洗練されていく。その成長を見守れることが、陽一にとっての密かな喜びだった。

一時間ほど波と戯れた後、二人はいつものように海沿いのレストランで食事を共にする。窓際の席から見える夕暮れの海を眺めながら、様々な話に花を咲かせた。

陽一は環境保護や海洋生態系について詳しく、時には専門的な話を織り交ぜながら、美咲の質問に丁寧に答えてくれた。その博識さと、何より相手を思いやる誠実な姿勢に、美咲は日々深く魅了されていった。

一方の陽一は、美咲の純粋な心と知的な好奇心に惹かれていた。大学での学びや将来の夢を語る彼女の瞳は輝きに満ち、その表情に見とれることも多かった。

しかし、その穏やかな日々は、突然の出来事によって揺らぐことになる。

付き合い始めて4 ヶ月が経った頃、美咲の父親に脳腫瘍が見つかった。診断は残酷なものだった。ステージ4。手術を行っても完全な除去は難しく、通常の治療を施しても余命はわずか1 年。

「重粒子線治療と再生医療なら、可能性があります」

医師の言葉に、一筋の希望を見出した美咲。しかし、その治療費は途方もない額だった。重粒子線治療は月に一度で年間2400 万円。再生医療は年4 回で1200 万円。合計で年間3600 万円。

会社を退職した父の貯金では、とても賄えない金額だった。

美咲は必死で考えた。奨学金を借りて大学に通う身で、アルバイト程度の収入では、到底父の治療費には及ばない。しかし、水商売なら、クラブやキャバクラホステスならどうか、どうせなら風俗嬢なら...高収入を得られる。そして、陽一をあきらめられる。美咲は、自分を汚すことで、陽一への思いを断ち切ろうとしていた。

その決断を下すまでに、どれほどの夜を眠れずに過ごしたことか。でも、愛する父を救いたい。その一心で、美咲は大学を中退して風俗嬢になることを決意した。

しかし、それを陽一に告げる勇気はなかった。清廉潔白で誠実な陽一に、自分がそんな世界に身を置くことを、どう説明すればいいのか。そして何より、陽一との関係を続けることが、彼の将来に影響を与えかねないことも分かっていた。

付き合って6 ヶ月目のある日。美咲は陽一を、いつも二人で行くカフェに誘った。雨の予報が出ていた土曜日の夕方。波は荒れ、サーフィンは中止になっていた。

「陽一さん...私、言わなければいけないことがあります」

心臓が張り裂けそうな痛みを感じながら、美咲は言葉を紡いだ。

「私は...経済的に不安なままで結婚できないの」

その言葉は、自分の本心とはまったく逆のものだった。本当は、陽一となら貧しくても幸せに暮らせると信じていた。でも、その思いは胸の奥深くにしまい込まなければならない。
陽一は驚いた表情を浮かべ、長い間、言葉を失っていた。カフェの中に流れる静かな音楽だけが、重苦しい空気を満たしていた。

「そうか...」

ようやく陽一が口を開いた。その声は、普段の温かみを失っていた。

「それはそうだよね。美咲ちゃんも結婚を考えてもおかしくない年だし、夢ばかりの男とは、付き合っていられないよね」

その言葉が、美咲の心を深く抉った。違う、そうじゃないの。叫びたい気持ちを必死で抑えながら、美咲は黙って俯いていた。

陽一はレシートを手に取り、レジに向かった。そのまま、振り返ることなくカフェを出て行く。

残された美咲は、天井を見上げ、溢れそうな涙をこらえた。でも、もう限界だった。カフェを出た瞬間、激しい雨の中で、美咲は声を上げて泣いた。

冷たい雨が頬を伝う。それは、涙なのか雨なのか、もう区別がつかなかった。

「お父さん...ごめんなさい。陽一さん...ごめんなさい」

通り過ぎる人々は、雨の中で泣く少女に不思議そうな視線を投げかけた。でも美咲には、もうそんなことも気にならなかった。

ずっと強がってきた心が、ついに崩れ落ちた。愛する人を守るために、愛する人と別れなければならない。その残酷な選択を、美咲は一人で背負っていかなければならなかった。

雨は次第に強さを増し、美咲の肩を打ちつけた。まるで、彼女の心の痛みに共鳴するかのように。
そして美咲は、ずぶ濡れになりながら、ゆっくりと駅への道を歩き始めた。この道を、もう二度と陽一と歩くことはないのだろう。その思いが、さらなる涙を誘った。

背後では波の音が響いていた。かつては幸せな思い出に満ちていたその音が、今は別れの調べのように聞こえた。美咲は、肩を震わせながら歩き続けた。明日から、新しい生活が始まる。それは、決して望んだ道ではなかったけれど、父を救うために選んだ道。

駅に着く前に、美咲は最後に一度、海の方を振り返った。陽一との思い出が詰まった、あの美しい海。その波間に、二人の幸せな時間が永遠に刻まれていることを願いながら。

第6 話「誠実な選択」

陽一と別れてから数週間、美咲は自分の決断について深く考え続けた。キャバクラで働くという選択肢は、すぐに心の中で否定された。お客の気持ちを弄び、お金を巻き上げるような商売は、彼女の性に合わなかった。

「どうせ身を落とすのなら...」

美咲は静かに決意を固めた。吉原の高級店。そこなら、表も裏もない、誠実な商売ができる。
インターネットで調べた店は、上品な佇まいの古い建物だった。

面接に訪れた日、美咲は緊張で手が震えていた。しかし、店長の穏やかな物腰に、少しずつ気持ちが落ち着いていった。

「美咲さんのような方なら、紳士のお客様が喜んで高額をお支払いくださると思います」

店長の言葉は丁寧で、どこか教養を感じさせた。

「2 時間8 万円の設定にさせていただきます。高いお金を頂戴する分、お客様には心からの奉仕をお願いいたします」

美咲は静かにうなずいた。父の治療費を考えれば、この金額は必要だった。

その後の2 日間、美咲は接客の基本から細かな作法まで、丁寧な指導を受けた。源氏名を決める時、彼女は少し躊躇った後、「美波」と名乗ることにした。自分の「美」の字と、陽一との思い出が詰まった「波」。その名前に、過去への別れと未来への決意を込めた。

3 日目の午前11 時。最初のお客様から指名が入った。ネット予約のお客様で、写真を見て指名を入れてくれたらしい。

お客様は、本名を名乗ってくれた。神谷豪。陽一と同じ名前。かれは40 代の商社マンだった。陽一と同じ職業だった。清潔感のある人で、部屋に入った時から緊張した様子だった。

「美波さんでしたね。写真よりお綺麗で...少し緊張してしまいます」

その言葉には、不思議な誠実さが感じられた。

美咲は習った通りに会話を始めた。

「今日は指名していただき、ありがとうございます。神谷さまは、どのようなお仕事を?」

「商社で海外投資の仕事をしています」

その言葉に、美咲の心は一瞬凍りついた。陽一も同じ世界にいた。しかし、今はその思いを押し殺さなければならない。

会話は自然と海外の話題へと移っていった。神谷のベトナム出張の話から、経済成長と人口動態の相関関係まで。その話題の深さに、美咲は思わず本来の自分を覗かせてしまう。

神谷さんはどのようなお仕事をされているのですか?」「僕は商社のサラリーマンです。商社で海外投資の仕事をしています。」美咲は、心の中で、陽一も商社で金融の仕事をしていたことを思い出し、胸が痛くなった。しかし、今は目の前のお客様に奉仕しようと、陽一の面影を無理に押しやった。

美咲は話を続ける。「海外出張も多いのですか?」

「多いです。実は一昨日、ベトナムから帰国したばかりです。」と神谷が答える。

「ベトナムですか?ベトナムの印象はいかがでしたか?」

「ベトナムは、いま伸び盛りといった感じで、熱気にあふれています。国民の平均年齢が31 才と若い。日本の平均年齢は昨年51 才になりました。20 歳も平均年齢が違います。平均年齢と経済成長率は、相関関係があることは、経済学者のDavid Bloom・David Canning の研究で明らかになっています。また高齢化すると、経済が不活性化することは、人口学者のRonald Lee とAndrew Mason の研究に詳しいです。あ、こんな話、つまらないですよね。」と神谷。

「そんなことありません。興味があります。この国民の平均年齢とGDP 成長率の相関係数はどれくらいなのですか?0.8 とかあるのでしょうか?」

神谷は驚いた表情を見せた。「美波さん、相関係数とか知っているのですね。学生時代、数学が好きでしたか?」

「はい、数学が一番得意でした。とくに統計は答えが無い分興味をそそりました。」

「美咲さん、リケ女なんですね」と神谷。

その言葉に、また陽一の面影が蘇る。しかし、美咲は必死でその想いを押し殺した。今は目の前のお客様だけに集中しなければ・・・。

神谷は続ける、「統計学者のジョン・W・テューキーは、AI システムが生成する大量のデータを適切に解析し、意味ある洞察を引き出すには、高度な統計知識が不可欠で統計学者はAI の時代に引っ張りだこになると、言っています。あ、またつまらない話をしました。」

美咲は、徐々に神谷に好印象を持ち始めた。それは、陽一に対して感じた、恋愛の気持ちとは違う。あくまでお客様として、一生懸命サービスしようという気持ちに励みが付いた。その後の時間は、不思議なほど自然に流れた。神谷の海外での経験談を、美咲は真摯に聞き入った。

そして、教育を受けた通り、45 分ほど経った時、美咲は彼をお風呂に誘い、体を洗い、そしてベッドに誘導した。

陽一以外の男性と初めて関係を持つ瞬間、美咲は目を固く閉じた。これが新しい人生の始まり。そう自分に言い聞かせながら。

それから2 ヶ月もしないうちに、美咲は店のナンバーワンとなっていた。彼女の誠実さと知性は、多くの紳士たちの心を捉えた。初めての客のほとんどが常連となり、予約の取れない女性として名が通るようになっていった。

そしてクリスマスイブ。その日の予約は、すべて常連の方々で埋まっていた。吉原の世界では、クリスマスイブに常連客だけで予約が埋まる女性は少なく、美咲は、必死で務めてきた数か月間の自分のサービス努力がが評価されたんだ、と振り返った。

クリスマスイブの最後の客が帰った後、美咲は部屋の窓から夜空を見上げた。街はクリスマスの賑わいに包まれ、どこからかキャロルが聞こえてくる。

ふと、陽一のことを考えた。彼も誰かと過ごしているのだろうか。その考えが胸を刺すような痛みをもたらした。

しかし、美咲は涙を見せなかった。父の治療費は着実に貯まっていた。重粒子線治療も、再生医療も、もう手の届くところにある。

部屋に戻り、美咲は鏡の前に立った。そこには「美波」という源氏名で生きる自分の姿があった。もう後戻りはできない。これが自分の選んだ選択。

鏡に映る自分に、美咲は小さく微笑みかけた。そこに写るのは、若いけど色気のある女性で、純真で、夢に満ちていた過去の自分とは、もう別人のように思える。心に陽一の面影が浮かぶ。もし陽一が、今の自分を見たら、どう思うだろう。悲しむのだろうか、安い女と軽蔑するのだろうか。美咲は微笑みながら、目に涙をたたえた。

窓の外では、クリスマスの雪が静かに降り始めていた。美咲は、また窓際に立ち、夜景を眺めた。新宿の高層ビル群が、まるでクリスマスツリーのように輝いている。

「陽一さん...」

こころにつぶやいた名前が、部屋の闇に溶けていく。もう二度と会うことはないだろう。それでも、あの夏の思い出は、永遠に私の心の中で輝き続ける。

そして夜は更けていった。明日からまた、新しい一日が始まる。美咲...いや、美波として生きていく日々が。

父の命を救うため。

それだけを思って。

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