真に優れた芸術は、造り手の意図したテーマを超越するという。人類が長い歴史の中で創り出した美術・芸術は時代的に圧倒的に宗教美術、信仰や儀式のために作られたものが実は圧倒的に多いが、古代の、今は誰も信仰していない宗教に基づく作品(たとえば古代エジプト文明)でも、圧倒的な精神的な高みを現代人に喚起することがある。いや現代の芸術である映画でも、ロベール・ブレッソンの映画に圧倒されるのにカトリックである必要はないし、溝口健二が日蓮宗の信徒と知らなくても『西鶴一代女』の田中絹代の「あの子は私の子供です」の一言の聖性には思わずひれ伏さんばかりの心持ちになる。パゾリーニの『奇跡の丘』は原題が「マタイによる福音書」だが作ったのは無神論者で同性愛を公言していた共産主義者の詩人で遺作が『ソドムの市』の映画作家、基督を演じたのはスペインの左翼学生運動リーダーだったではないか。
聖徳太子の住んだ斑鳩宮の跡のすぐ東に隣接する中宮寺に伝わる飛鳥時代の菩薩半跏像と、斑鳩宮跡の西に境内が広がる法隆寺の、「百済観音」の通称で知られる(ただし明らかに日本製の)飛鳥時代の観音菩薩立像は、そうした「宗教美術を『超』えた宗教美術」の典型だろう。
会場に入るやいきなり、海の底のような青い闇に灯火のようにやさしい光を発する「百済観音」の姿に、我々は向き合う。
国宝 観音菩薩立像「百済観音」 飛鳥時代・7世紀 奈良・法隆寺
法隆寺は奈良博の記念の年(開館130周年)ではなく「世界平和のため」と、「百済観音」を出品したという。それも1350年〜1400年前の像で表面の彩色や乾漆仕上げの木屎漆(漆におかくずなどを混ぜたペースト)には剥落のリスクがあるにも関わらず、ガラスケースに隔てられることなく我々が「百済観音」と同じ空間を共有できる展示だ。
「ただ国宝を並べただけの『国宝展』にする気はない」という奈良国立博物館の、あえて『超』を銘打ったこの特別展は、会期後半に入って冒頭の展示室の「百済観音」のたたずむ海底の闇とかがやきと対になるように、凝縮された時空の旅路の最後に、観客が中宮寺の菩薩半跏像と光の空間を共有する、という「祈りのかがやき」の旅路を完成させている。
海底の闇から光の中への旅路をつなぐキーワードは、聖徳太子、観音菩薩と、未来仏・弥勒
「百済観音」はまだ、なまじ日本人だと「教科書で見た国宝」のイメージが強すぎてその記憶に囚われて見てしまいかねないが、今回の展示方法はそんなことをはるかに「超」越している。そして中宮寺の像は写真も含めて初めて見る人も少なくないかも知れないが、その属する文化圏や民族を文字通り「超」えて、ただその存在に、なにかただならぬ超越的な美しさを見た圧倒的な、なんらかの感情を呼び起こす。
どちらの像とも説明不要な1350年以上前の人々が到達した普遍的な聖性と超越的な美に、あえて歴史的な説明を加えるなら、中宮寺の像の「半跏思惟」のポーズは、当時の日本と三国時代朝鮮半島との関わりの深さと類例の像から、通常は弥勒菩薩を表すと考えられる。いや実は朝鮮半島にも「半跏思惟」イコール「弥勒」と確定した決まり事があったわけでもないようだが、中宮寺の菩薩半跏像はいつしか聖徳太子の16歳の生き写しの姿と伝えられるようになり[註1]、太子の本地仏[註2]である如意輪観音菩薩として信仰されて来た[註3]。
(註1)厳密には太子創建の大阪・四天王寺の本尊(現存せず・ 写しが法隆寺聖霊院に)がまずそうみなされ、中宮寺の像はその同体という記述が遅くとも中世には見られるという。
(註2)仏が日本人のために姿を変えて顕現した生まれ変わりの、本来の仏の姿。
(註3)明治以降の中宮寺では太子の母・穴穂部間人皇女の生き写しとしている。
一方の「百済観音」、実は江戸時代以前の記録がない謎の仏像だ。腕が長いのは救済の象徴である腕を長く表現するのは観音菩薩の像によく見られ、この観音像の腕は長さで気づきにくいかも知れないが実はかなり太く逞しい。
それにしてもなぜ、こんな長身の造形なのか?
国宝 観音菩薩立像「百済観音」 飛鳥時代・7世紀 奈良・法隆寺
細身の長身は2メートルを超えるが、細いベルトで少しだけ引き締められた腰から上の造形は、胸と腹の筋肉の微かな膨らみや柔らかな撫で肩など、意外と写実的でほぼ等身大の人体に近い
江戸時代の記録では「三国伝来」(日本に仏教が伝わるルートとなったインド、中国、朝鮮半島)の「虚空蔵菩薩」とあるが、左手に水瓶を持つのは観音菩薩のはずだ。ミステリアスな美にエキゾチシズムを見て「百済観音」という通称を広めたのは和辻哲郎の『古寺巡礼』が始まりと言われるが、材木は当時の日本の仏像に多く使われたクスノキ、日本製だ。
謎めいた長身の造形は古代日本というか、この像に独自のものだ。理由は諸説あるが決定的な定説はない。シャープな直線とたおやかな曲線で明快に整理された衣の表現、横から見ると緩やかなS字の曲線を描くところなどは同時代の朝鮮半島、それ以前の時代の中国本土の様式の影響も見られるものの、こんな特異なフォルムの仏像は朝鮮半島にも古代中国にもない。
頭頂から主要部分が同じ一本の材から彫出された蓮の花弁の台座が正円でなく、その下が不等辺の五角形という異例な形状であることも含め、元の材木の形がそのまま反映されていて(つまり丸太のサイズ内ぎりぎりに形をとって)、その木自体がなんらかの宗教的な意味を付与された霊木・神木だったのではないか、そこでたとえば経典に基づき身長をあらかじめ決めていたので材の太さに合わせてこの長身になったのではないか、というのが今のところもっとも納得できそうな説ではある。
顔や胴体の一部、背面の腰回りなどは、漆におがくずや砂、砕いた石を混ぜたペースト状の木屎漆を用いた乾漆で整えられている。
こと乾漆を活かして繊細に造形された顔の表情と、胸や腹部の微妙な膨らみまで明確に浮かび上がらせた照明が素晴らしい。
冠や首飾り、腕輪は銅板を打ち抜き細かな線刻を施した金属工芸の粋で、そうした質感もしっかり判別できる。かつては金にかがやいていたはずだ。
その腕輪の紋様のパターンが、やはり法隆寺に伝来した金銅製の幡(仏事を飾るために竿から垂らされる縦長の装飾で通常は布製)の紋様と一致し、つまりほぼ同時に同じ工房で作られたと推論できる。この国宝の金銅幡(東京国立博物館・法隆寺献納宝物 ※本展の展示品ではない)は、聖徳太子の長男・山背王が皇位継承争いに巻き込まれて蘇我氏に滅ぼされた後、太子の娘の片岡女王が兄を弔うために奉納したと伝わる。
つまり「百済観音」もまた唯一人生き残った太子の娘が、非業の死を遂げた太子の息子の菩提を弔い、家族の来世での救済を祈った観音像なのかも知れず、そうだとするとこの像の発する独特の超越的な霊性、今回ガラス越しでなく対面することでより深く感じ入るそこはかとない悲哀と、一抹の悲しみもあるからこそじっと見つめ続けげしまう安らぎの感覚も、納得できるかも知れない。
現にこの展覧会では、しばらくじっと見つめていて、自然に手を合わせる観客が多い。
国宝 天寿国繡帳 原本:飛鳥時代・推古天皇30年(622)頃、模本部分:鎌倉時代・建治元年(1275) 奈良・中宮寺 展示期間 4月19日〜5月15日[展示終了]
元はカーテン上の薄い絹に刺繍で功徳を積んだ者のいく来世「天寿国」の光景を描いたものが長い歳月を経て断片化した後も大切に保存しようとこのような形にまとめたことからも、活仏とみなされた太子への深い信仰が現れいる。その鎌倉時代に、太子信仰は庶民にも広まった。
法隆寺の本尊・釈迦三尊の光背裏側の銘文によれば、太子は母・穴穂部間人皇女と妃の一人・膳部大郎女の後を追うように亡くなったとされ(天然痘のような疫病が疑われる)、中央の釈迦如来は太子の等身大、つまりその生き写しの分身として造られた。法隆寺に隣接する中宮寺は長らく内親王が住職を務める尼門跡だった寺院で、太子のもう一人の妃の橘大女王がその死を悼み、天上界に生まれ変わった太子の姿を表して作った刺繍の「天寿国繡帳」の現存する最大の断片も伝来する。
本尊の菩薩半跏像がいつしか太子の本地仏・如意輪観音、ひいては太子その人と同体とも信じられるようになったのには、そうした太子との深いゆかり、天皇家のとりわけ女性たちが生き仏としての理想君主の太子に寄せて来た深い思いも、関係しているはずだ。
国宝 菩薩半跏像(伝如意輪観音) 飛鳥時代・7世紀 奈良・中宮寺 展示期間 5月20日〜6月15日
菩薩の姿は中性・あるいは両性具有的に表されるもので、この菩薩半跏像も斜めから見たりすると女性と感じる人も多い。だが正面から見るとしっかりした肩幅も胸の筋肉もあり、頬に指を当てた右手もたしかに指は細く繊細だが掌が分厚く、優美のようでいて力強さも実は秘めた像だ。
今回、真っ白な、光の部屋に展示されると、壁面からの柔らかな反射光で真っ黒な表面が艶やかに照らされて飛鳥時代の彫りのシャープさや、細身ながら実はたくましくもある体躯もくっきり見えて来るのが、新しい発見だ。
この像がその生き写しと信じられるようになったと言われる16歳の太子といえば、物部氏と蘇我氏の内乱の時期で、太子も四天王に願をかけてその像を冠にして前線で戦った。思慮深く理知的な一方で凛々しく勇敢でもある、そんな青年の姿にも、この像は見えて来る。
国宝 四天王立像 広目天 飛鳥時代・7世紀 奈良・法隆寺
法隆寺金堂の須弥壇の四方を守る日本で最古の四天王像の一体。この広目天は光背の銘文から天智天皇の時代の仏師と「日本書紀」に記載がある山口大口費が主導して造ったと判る。聖徳太子建立の斑鳩寺は天智天皇の時代に落雷で焼失(若草伽藍)、まもなく現在の位置に再建されたと考えられる。この広目天は本展では百済観音の左に展示、右には多聞天が。
全身の黒さは永年、祈りの対象とされて来たなかで香や灯火、護摩の火などの煤が蓄積したものだろう。右の横顔など、黒の下に赤が垣間見える箇所があるが、元は全身が経典に基づいて塗り分けた鮮やかな彩色だったはずだし、人によっては女性的とも見る造形でも、口の周りには髭も描かれていたはずだ。額の真ん中に小さな穴が五つほど見えるのは、「百済観音」や法隆寺金堂の四天王のように金属の宝冠が固定されていた痕跡だろう。
だが今となっては、一千年を超える蓄積の漆黒のミニマルな姿こそ美しく、とりわけ今回の展示では光の空間のなかに映える。純然たる光学的な現象として、白い柔らかな光が全身に当たることで黒一色の立体感があますことなく照らし出されている。
国宝 菩薩半跏像(伝如意輪観音) 飛鳥時代・7世紀 奈良・中宮寺 展示期間 5月20日〜6月15日
「聖徳太子」という繋がり以外にも、「百済観音」も中宮寺半跏像も今回の展示では360度、全方向から見ることができることから、もう一点この二つの像の共通点に気付かされた。前期展示の紹介記事で「百済観音」の光背の支柱が竹を表していることに触れたが、中宮寺の菩薩半跏像も、光背の支柱がやはり竹にデザインされているではないか。
同じ「半跏思惟」のポーズの菩薩像で戦後の「国宝第一号」として切手でも親しまれた京都・広隆寺の像は弥勒菩薩[註4]、光に満ちた兜率天で世界の救済のための思考と修行を続け、釈迦の入滅から56億7千万年後に弥勒如来となって地上に顕現する(弥勒下生)とされる。
[註4]広隆寺は渡来人の秦氏の氏寺で、半島からもたらされた弥勒菩薩の像を聖徳太子が秦氏に賜ったという記録がある。この記録に付合するように広隆寺の像は材が主にアカマツであることや技法からも朝鮮半島製と考えられるのに対し、中宮寺像はクスノキで日本製。

国宝 弥勒仏坐像(試みの大仏) 平安時代・9世紀 奈良・東大寺 展示期間 5月20日〜6月15日
釈迦の死後、56億7千万年後に悟りに至って地上に救済のために顕現するという、未来の弥勒の姿を表した如来像。小さな像ながら重厚で圧倒的な量感を持ち、東大寺の大仏建立のための雛形だったと伝承されて来た。
百済観音が海の底を思わせる空間に展示されているのは観音菩薩の住まう南海の補陀落山のイメージだとするなら、この菩薩半跏像の展示空間は弥勒の住まう「光の国」、天上の兜率天であり、SF的、宇宙船のようにも見える。
展示の後半最終盤、中宮寺の菩薩半跏像に至る順路に掲げられた、『法華経』と『弥勒大成仏経』の抜粋
実は広隆寺の弥勒菩薩半跏像は、円谷英二がウルトラマンのモデルにした。「光の国からぼくらのために」という主題歌も、実は兜率天とそこから下生する弥勒のイメージなのだ。