藤田嗣治(ふじた つぐはる)(1886-1968)は、東京美術学校卒業後、フランスに渡り、1920年代、「素晴らしき乳白色の下地」と称賛された独自の画風によって、エコール・ド・パリの寵児としてフランスでの名声を確立しました。
一方、藤田より3歳年下の国吉康雄(くによし やすお)(1889-1953)は16歳で労働移民として渡米、画才を認められて研鑽を積み、アメリカ具象絵画を代表する画家としての地位を築きあげました。
奇しくも海外に渡った二人の画家は、1925年のパリで総合芸術の博覧会(通称 アール・デコ展)で、時を同じくしていたようです。実際に、二人が出会っていたかどうかは定かではありませんが、1925年のパリに二人の画家がパリに存在したことは確かです。そして、二人の画家の共通点は、20世紀前半、異国の地で成功と挫折を経験したことです。さらに、作品を描いた時期も並行していました。
このたび、アール・デコ展から100年の時を経て、今度は神戸の地で、二人の画家の展覧会が開かれることになりました。兵庫県立美術館において、特別展「藤田嗣治×国吉康雄:二人のパラレル・キャリア―百年目の再会」が、2025年6月14日(土)~8月17日(日)に開催されます。巡回はなし、兵庫県立美術館のみの展覧会です。
藤田嗣治の《自画像》や、作戦記録画《ソロモン海域に於ける米兵の末路》など、東京国立近代美術館をはじめとする美術館から、名品の数々が、油彩画を中心に約120点、直筆の書簡などの資料も多数出品されます。
異国で成功を味わったものの、第二次世界大戦に翻弄され苦悩した二人の画家の軌跡を、魅力あふれる作品の数々を通してご覧ください。
第1章 1910年代後半から20年代初頭:日本人「移住者」としてのはじまり
1906年、16歳で労働移民として渡米した国吉は、教師の勧めで画家を志し、ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで研鑽を積みます。 東京美術学校卒業後の藤田は1913年26歳で渡仏。第一次大戦下も欧州にとどまり、戦後、パリの諸サロンで入選を重ねます。

国吉康雄 《夢》 1922年 石橋財団アーティゾン美術館
アメリカで美術を学んだ国吉は、フォーク・アートに見られる鳥瞰図的技法を取り入れました。モチーフとしてよく描いた牛や子供の姿をデフォルメし、空間に奥行きを持たせた作品は、西洋と東洋の融合した表現として評価されました。
第2章 1922年から24年:異国での成功
乳白色の下地による裸婦のスタイルを確立した藤田は、20年代前半のパリの諸サロンに代表作《五人の裸婦》などを発表します。 ニューヨークの国吉は1922年からダニエル画廊で毎年個展を開き、複数の展覧会に参加を続け、東洋的と評された作風で注目を集めました。

国吉康雄 《幸福の島》 1924年 東京都現代美術館
海を背景に島で横たわるエキゾチックな裸婦像。子宮内の胎児を思わせる構図と女性の表情、腹部から芽吹く枝や貝殻などを組み合わせることで、独自の官能表現を生み出しました。この頃の国吉はモデルを使わず、記憶や想像で描いています。
第3章 1925年と1928年:藤田のパリ絶頂期と国吉の渡欧
1925年、パリではアール・デコ博覧会が開かれ、日本からも多くの視察がありました。国吉は1925年と28年に当時の妻で画家のキャサリン・シュミットとパリに滞在します。 ブルガリア出身で、ニューヨークとパリを往来するジュール・パスキンは藤田、国吉の共通の親しい友人でした。
第4章 1929/1930/1931年:ニューヨークでの交流とそれぞれの日本帰国
藤田は1929年に初めて母国に一時帰国を果たしました。いったんパリに戻り、1930年秋、ニューヨークでの個展のために藤田は渡米します。ここでふたりは直接交流する機会を得ました。
その後、藤田からの紹介状を手に、1931年、国吉は24年ぶりに母国に向かいます。
第5章 1930年代:軍国主義化する母国の内外で
30年代初頭にパリを離れ、中南米経由で33年秋に母国に戻って定住した藤田はフランス、日本・アジアの風俗など新たな画題に取り組みました。 国吉は順調な制作を続け、受賞を重ねました。母校で教職につき、さらに芸術家権利向上・団結を目指す活動にも力を注ぎます。

国吉康雄 《逆さのテーブルとマスク》1940年 福武コレクション
静物画の題材に独自の意味を持たせた国吉の代表作。逆さまに置かれたテーブルは、不安定で、一本折れた脚には仮面が掛り、今にも崩れ落ちそうな危うさが感じられます。定規や花瓶が不均衡なバランスを保っています。テーブル上の新聞には第二次世界大戦についてのニュースが報じられているのでしょうか?
第6章 1941年から45年:日米開戦下の、運命の二人
1941年12月8日の日米開戦が、親しかった在外邦人画家の運命を別(わか)ちます。 藤田は母国で、軍部からの作戦記録画の注文に力を注ぎます。 国吉のアメリカでの立場は敵性外国人となり、行動制限を受けるなか、軍国主義を批判する活動や制作に取り組みました。

国吉康雄 《誰かが私のポスターを破った》1943年 個人蔵
画家ベン・シャーンによる労働者のポスターが破られ、その前に立つ女性は戦時下の国吉の心境を投影しているかのようです。モデルを前にデッサンした後、さらに長い時間をかけて制作することで、国吉の言う「ユニバーサル・ウーマン(普遍的女性像)」となっています。
第7章 1946年から48年:戦後の再生と異夢
戦後、藤田は「戦争責任」を囁かれるなか、裸婦や幻想的な情景の制作を再開しつつ、フランス帰還の可能性を模索します。 国吉は制作と美術家組合の活動に邁進。1948年ホイットニー美術館で、現存作家初の個展を開催します。
第8章 1949年ニューヨーク:すれ違う二人
藤田は1949年3月、離日・渡米を果たし、ニューヨークに約10か月滞在。現地では恵まれた画材や美術館の西欧名画と再会し、11月にはマシアス・コモール画廊で個展を実現します。 国吉は藤田不在の個展会場を訪ねたようですが、この間、二人の再会はありません。
第9章 1950年から53年: 藤田のフランス永住と国吉の死
1950年秋に体調を崩した国吉は、移民法改定を受けアメリカ国籍取得の手続き途上の1953年5月に亡くなりました。 1950年初にパリに帰還し、55年にフランス国籍を取得して日本国籍を手放した藤田は、晩年カトリックに改宗。1968年に没し、欧州の土に還ります。

藤田嗣治《二人の祈り》1952年名古屋市美術館
© Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2025 E5974
戦後初めて宗教画に本格的に取り組んだ本作は、画面中央で藤田夫妻が聖母子に祈りを捧げています。藤田が自室を飾るために制作されたもので、君代夫人が最期まで手元に残した作品です。

国吉康雄 《ミスターエース》 1952年 福武コレクション
戦後描かれた色鮮やかな作品は、その色彩の裏にどこか不穏な空気を感じさせます。緑の仮
面の下の顔は死人のように青白く、その笑みは見る者を不安にさせます。晩年に描かれた男
性のピエロ像は、動乱する世界の中での画家自身を象徴しているようです。
藤田と国吉はそれぞれ作風が違いますが、パリとニューヨークで成功を収めた画家でした。そして、戦争に翻弄され、藤田は、戦時中日本に帰国し、従軍画家として「作戦記録画」を残し、「戦争責任」問題に悩まされました。戦時下もアメリカに留まり、制作を続けた国吉は、敵国にいる日本人として苦悩しました。
異国で活躍した二人の画家の光と影を作品とともにご堪能ください。
展覧会概要
展覧会名:藤田嗣治×国吉康雄:二人のパラレル・キャリア―百年目の再会
会場:兵庫県立美術館
神戸市中央区脇浜海岸通1-1-1【HAT神戸内】
会期:2025年6月14日(土)~8月17日(日)【56日間】
開館時間:10:00~18:00(入場は17:30まで)
休館日:月曜日(7月21日、8月11日は開館し、7月22日、8月12日が休館)
TEL 078-262-1011
https://www.artm.pref.hyogo.jp
料金など詳細は、上記URLに触れて頂きますと、美術館公式HPより、ご覧いただけます。
シネフィルチケットプレゼント
下記の必要事項、をご記入の上、藤田嗣治×国吉康雄:二人のパラレル・キャリア―百年目の再会@兵庫県立美術館 シネフィルチケットプレゼント係宛てに、メールでご応募ください。
抽選の上2組4名様に無料鑑賞券をお送り致します。
☆応募先メールアドレス miramiru.next@gmail.com
★応募締め切りは2025年6月23日 月曜日 24:00
記載内容
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