まず、あまりに圧倒的に傑出している。日本の肖像彫刻の…いや彫刻に限らず世界の肖像芸術でもっとも美しいひとつなのは間違いない。比肩され得るものとして頭に浮かぶのは「モナリザ」(ルーヴル美術館)や、古代エジプト・アマルナ時代の「王妃ネフェルティティの胸像」(紀元前1345年・国立ベルリン・エジプト博物館)、アルブレヒト・デューラーやレンブラントの自画像、ヴェラスケスの描く王女マルガリータ・テレサ、カール・Th・ドライヤーの映画『裁かるゝジャンヌ』くらいだろうか?

国宝・鑑真和上坐像

その美術史上の重要性も、「モナリザ」は現代の世界は西洋文明がドミナントだからダ・ヴィンチの知名度が…とか、京都国立博物館の庭にはオーギュスト・ロダンの「考える人」があるが…などと比較しても、この像を前にした時にはあまりに卑俗で、およそ本質からかけ離れた話にしかなるまい。

それだけ超越的で、荘厳で、崇高だ。

画像1: 鑑真和上坐像 奈良時代8世紀 奈良・唐招提寺 国宝

鑑真和上坐像 奈良時代8世紀 奈良・唐招提寺 国宝

日本では誰でも写真やテレビなどで見覚えがある、「教科書に載っている国宝」の代表例のひとつだろうが、実際に見られる機会は、実はとても少ない。唐招提寺でこの神聖な御影(宗派の開祖の肖像画や彫刻のこと)が大切に安置された厨子が開かれるのは年に一度、6月の開山忌(寺院の創始者の命日)だけ。

その「鑑真和上坐像」を1ヶ月半のあいだ、京都国立博物館でずっと見られるというだけでも、この特別展の意義は大きい。

実物を前にすると、写真などで知ったつもりになっていても実はなにも見ておらず、なにも本質を感じていなかったことに気付かされる。写真や映像には写らないなにか、実は写っていても写真では見えない、気づけないなにかが、この像には確実にある(なので本記事でも写真は掲載するが、あくまで参考まで、影のようなもの)。宗教的な像であるのは自明だが、「オーラ」などと安易に言えそうにないほど一見静かで、平穏な、しかし圧倒的な存在感は、像主の人柄の重みなのだろうか?

その人が1人の、ただの人間として生まれた存在だからこそ、その自らの人間存在を突き詰めて生をまっとうした人物ならではの、深い威厳を、この像は有無を言わせずに伝えている。

画像2: 鑑真和上坐像 奈良時代8世紀 奈良・唐招提寺 国宝

鑑真和上坐像 奈良時代8世紀 奈良・唐招提寺 国宝

その人の人生の到達点としての老境を写しとったと思われるこの像は、なにごとにも動じなさそうでありながら、重苦しさはまったくない。微動だにしなさそうな姿にどこか張り詰めた緊張感があり、なのになぜか、どこか軽やかでもある。生々しさはまるでないのに、まるで鑑真和上がその場にいるようでもある。等身大で自然な存在でありながら…いや自然な存在だからこそ、超越している。

実は、案外と軽いはずだ。木造ではなく脱活乾漆、うるしにおがくずを混ぜたペーストで何層にも重ねた麻布を固め、さらにそのうるしのペーストで表面を整形することで造形されていて、内部から支える木の骨組み以外は空洞なのだ。

日本では主に奈良時代にだけ用いられた技法で、代表的な例は他に同じく唐招提寺の、金堂の中央に安置された本尊の盧舎那仏坐像(国宝)、興福寺の阿修羅像をはじめとする八部衆立像と十大弟子立像(全て国宝)、東大寺法華堂(三月堂)の不空羂索観音・梵天・帝釈天・金剛力士・四天王(全て国宝)、法隆寺西円堂の通称「峯の薬師」(国宝)などがある。木や石のかたまりから形を彫り出して行くのではなく、自由に形を盛り上げて行くので、木の仏像よりも細かな造形が自在にできる。

それだけに、「鑑真和上坐像」の表現は、細部に至るまで極めてリアルだ。

厨子に納められて扉を開けただけの状態では難しいが、今回はガラスの前まで近寄り、斜めからも見ることもできる。じっくり角度を変えて観察すると、耳の下にやや角張った顎骨から顎先に向かう線と、そこからしっかりした頬骨に向かって立ち上がる平面、個性的な頭頂部など、晩年の高僧の静謐な顔立ちを精確に写しとっている。

画像: 鑑真和上坐像 奈良時代8世紀 奈良・唐招提寺 国宝 唐招提寺の開山忌での年に一度の開帳では、このように横からは見ることはできない

鑑真和上坐像 奈良時代8世紀 奈良・唐招提寺 国宝
唐招提寺の開山忌での年に一度の開帳では、このように横からは見ることはできない

普段は閉じた厨子に納められているせいか、保存状態はとてもよく、衣や袈裟の1250年以上前の彩色もよく残っている。いささか恐る恐る、ガラスケースに近寄ってお顔を間近に拝すると、閉じた目の周りには極細のまつ毛や、唇の下の細かな、うっすらとした髭まで、繊細に描き込まれている。

こうした脱活乾漆像はなぜか、平安時代以降まったく作られなくなり(少なくとも現存例はない)、日本の彫刻はなぜか木像が主流になった。平安時代初期には「一木造り」、カヤなどの硬い一本の材木から腕など以外の主要部分を彫り出した仏像が多く作られたが、唐招提寺にはその先駆になったとも考えられる奈良時代の一木造りの仏像が5体あり、そのうち1体、伝「獅子吼菩薩立像」も出品されている。

画像: 伝獅子吼菩薩立像 奈良時代8世紀 奈良・唐招提寺 国宝 失われてしまった腕以外は、頭頂から台座の蓮の芯の部分まですべてを一本の堅いカヤ材から彫り出した一木造りで、均整の取れた七頭身のふくよかな体躯、エキゾチック(インド風?)の顔、シャープな木彫技術の精度の高さから、鑑真が日本に伴った唐の仏師の作ではないかという説がある。こうした一木造りの仏像はその後平安時代前期の仏像の標準になるが、だとしたら鑑真が日本の仏教文化に与えた大きな影響のひとつとも考えられる。 獅子吼菩薩と伝わっているが、額の中央に第三の目が彫られていることや、腕の数、衣の一部に鹿革が表現されていることなどから、本来は不空羂索観音菩薩だったと考えられる。

伝獅子吼菩薩立像 奈良時代8世紀 奈良・唐招提寺 国宝
失われてしまった腕以外は、頭頂から台座の蓮の芯の部分まですべてを一本の堅いカヤ材から彫り出した一木造りで、均整の取れた七頭身のふくよかな体躯、エキゾチック(インド風?)の顔、シャープな木彫技術の精度の高さから、鑑真が日本に伴った唐の仏師の作ではないかという説がある。こうした一木造りの仏像はその後平安時代前期の仏像の標準になるが、だとしたら鑑真が日本の仏教文化に与えた大きな影響のひとつとも考えられる。
獅子吼菩薩と伝わっているが、額の中央に第三の目が彫られていることや、腕の数、衣の一部に鹿革が表現されていることなどから、本来は不空羂索観音菩薩だったと考えられる。

脱活乾漆像が奈良時代以降作られなくなった理由は、大変に高価だったことも大きいのかも知れない。逆に言えば「鑑真和上坐像」の製作は、ほとんど国家プロジェクトのようなものだったはずだ。

他の例はいずれも仏を表す像で、瞑想と学びの場である唐招提寺で宇宙の根本原理を表す本尊・盧舎那仏を除けば、国家の鎮護や敵の調伏、疫病の終息などの、国家の重要な祈りのために作られたと推測される、つまりは国家プロジェクト級の作例がほとんどだ。

だが和上像は実在の個人の生前か亡くなった直後に作られた肖像で、唐招提寺も朝廷が国家護持・鎮護国家のために直接に建てた「官寺」「勅願寺」ではないし、朝廷の実権を左右する藤原氏のような大貴族の氏寺でもない。だいたいこうした国家プロジェクト級の事業として実在の個人の像を製作するなら、普通なら国王とか皇帝で、その政治的権威の誇示であるとかを目的にしそうなものだ。

しかしそれでも、奈良時代の日本では、鑑真こそがそれに相応しい人物だった。

画像: 世界文化遺産・唐招提寺 金堂 奈良時代・天平宝宇3(759)年 国宝 鑑真は東大寺で精力的に授戒を行い多くの僧侶を輩出したあと、朝廷よりこの土地を賜り自らの寺を建立して晩年を過ごした。奈良時代の金堂がほぼそのまま残るが、屋根は江戸時代・元禄期の修理改宗でより高く、勾配を急峻に改造されている。なお三体の本尊の中央、盧舎那仏坐像も和上像と同じく脱活乾漆像で、千手観音と薬師如来の立像は木芯乾漆(この三体の他、木像の四天王、梵天、帝釈天もすべて国宝)。

世界文化遺産・唐招提寺 金堂 奈良時代・天平宝宇3(759)年 国宝
鑑真は東大寺で精力的に授戒を行い多くの僧侶を輩出したあと、朝廷よりこの土地を賜り自らの寺を建立して晩年を過ごした。奈良時代の金堂がほぼそのまま残るが、屋根は江戸時代・元禄期の修理改宗でより高く、勾配を急峻に改造されている。なお三体の本尊の中央、盧舎那仏坐像も和上像と同じく脱活乾漆像で、千手観音と薬師如来の立像は木芯乾漆(この三体の他、木像の四天王、梵天、帝釈天もすべて国宝)。

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