蔡明亮と俳優・李康生の長い歳月と、「老い」

同じ俳優を長年撮り続け、フィルモグラフィがその成長のドキュメンタリーにもなっている映画作家というのは、映画史上いくつか例がある。大学生のジョン・ウェインは最初はアルバイトのエキストラでジョン・フォード監督の映画に出演し、本格デビューはラウール・ウォルシュ監督作だったが、大スターになったのはフォードの『駅馬車』で、フォードは壮年に至るまでのウェインを『ドノバン珊瑚礁』まで度々主演させた。『ミーン・ストリート』で注目された俳優ロバート・デ・ニーロと監督マーティン・スコセッシは双方が70代になった『アイリッシュマン』まで9作品で組み、次回作ではそのデ・ニーロが、やはりスコセッシが『ギャング・オブ・ニューヨーク』の青年スターから円熟の大人の俳優になるまでを撮り続けているレオナルド・ディカプリオが共演する。

そんな監督と俳優の共謀の映画史の中でも、蔡明亮と李康生の公私に渡るパートナー関係は特別だろう。李は蔡の長編デビュー『青春神話』以来全作品に出演し、蔡の助けを借りて監督デビューもし、本作でもプロデューサーと書家として題字も担当している。私生活でもパートナーとなると逆に、たいていは離婚や別離で関係が断たれるのが常で、リヴ・ウルマンが別離後もイングマル・ベルイマン監督作品に出演を続け(むしろコンビの代表作はベルイマンが最後まで連れ添うことになる妻インリドと結婚した後が多い)、遺作『サラバンド』で久々にコンビを組んだ例くらいしかないだろう。そんなリヴ・ウルマンとベルイマン、あるいは親友同士でもあるデ・ニーロとスコセッシでも、20年以上出演しなかった中断期がある。

そうは言っても、『日子』の冒頭は蔡明亮ファンにとってある種ショッキングかも知れない。熱帯か亜熱帯とおぼしき、雨が降る光景がぼんやりと反射したガラス越しに、中年というか初老とも言えそうな、疲れた男性が外をぼんやりと見つめたまま動かない。何分間も続く固定ショットで、雨音だけが響く中、最初からそこに李康生を見ている観客もいるだろうし、しばらく見ていてやっと『愛情万歳』の繊細な美少年のほぼ30年後だと気づく人もいるだろう。

フィックス長回しショットの、既存の映画とは違う新たな可能性

前者にとっては逆に、カメラも人物も動かず窓に映った外の雨だけが微妙に動く長い長いショットの中で、「老いた」と言っていい現在の李康生を受け入れるか、逆にこの初老の男性が李康生だろうが誰だろうが、その俳優のアイデンティティはもはやどうでもよく、ただ今目の前の老いが始まった肉体を受け入れる他なくなる。そして駄目押しのようにセカンドショットは、浴槽に浸かったこの男の、上半身の裸体が、これまたほとんど動きがないまま続く。

この動きのない引き伸ばされた時間の連続に、観客は心地よささえ覚え始める。ひとつにはその長大なショットがいつも、他には考えられない絶妙なタイミングでカットされて次のショットに繋がるからだ。動きがない映像で編集点、このショットはここで終わるべきというの判断は、映画の作り手にとって恐ろしく難しい。我々は普通、何らかの動きやセリフのタイミングでショットを切り替えることが習い性になっていて、動きの中でなら正しい編集点を見つけるのは簡単だが、この場合はそうもいかないのだ。ところが蔡は、一見どこでも切れそうな、動きが極端に排除されたショットに秘められたリズムの最適な編集点を常に見つけ続ける。だから普通の映画なら退屈か、観客の忍耐力との根比べになりそうなやり方が、とても心地よい時間になるのだ。

蔡はどうも異邦人であるらしいこの男(李康生であることすら、今さらどうでもいい)と、清潔ではあるがタイル張りで殺風景でだだっ広い、どうも半地下のアパートに独りで暮らすもう一人の男性の日常を、なんの説明もなく交互に見せ続け始める。青年というには少し歳がいっていて、トランクス一枚だけの半裸で料理する姿は、腹が少し出ている。その料理も手順を見せるのでもなく、ただ白いタイル貼の部屋の中を半裸の肉体がリズミカルに動き続けることだけを見せ、それはいつしかミニマリストなダンスのように感じられて来る。

長大なフィックスショットの中で、日常の動きがダンスになる

一方、中年の男の方は、どうも首から背中にかけて病か痛みを感じているらしく、かなり大掛かりな鍼灸の治療を受けている。いや、その鍼灸の治療だろうと推測できる視覚的情報もまた、長大なショットの中でその意味付けを失い、そうした意味付けは次第にどうでもよくなってしまう。大画面を見つめる観客に迫ってくるのは、首から背中にかけて装着された凝った機械仕掛けの、その無機質な金属性と、そことは対照的に、中年か初老にしては艶やかで、少し脂の乗った男との肌と、その肉体の存在だけになっていく。

だいたい、たぶん鍼灸の治療なんだろう、という程度に推測しかできないのは、この映画が冒頭から「本作は意図的に字幕なし」と明示されているからでもある。つまり、言語による説明は一切ない。治療のあいだ鍼灸師たちが交わす言葉もまたなんの説明にもならないまま、観客にとっては外から聞こえる街路の、自動車の音と同様の、ただの音となる。そうなることが、「分からない」という苛立ちでなく、なにか心地よくなってしまうのは、なぜなのだろう?

例えるならまるで、座禅を組んでうまく集中できて、自我から解放されてなにも自分の考えや自意識に囚われなくなった時に、風の音や彼方の鳥の声まで、周囲のあらゆる音が耳に入って来て、その瞬間を確かに生きていると感じられるような解放感と心地よさの、そんな体験に近いのかも知れない。

その心地よさを打ちこわすように、それまでフィックスの連続だった映画が、突然激しい手持ちショットに切り替わる。不安定なショットの運動の中で次第に、首に大げさなギプスをつけた男が、人混みが多い大通りと無人の路地の入り混じった街を孤独にさまよっていることが分かって来る。

一方、青年というには少し歳がいった男の方もまた、自分のタイル張りの部屋の中で孤独なまま、食事をしている。背後には水着姿の女性が写った、何かの商品のポスターが見える。対照的に、初老の男の方は、まったく生活感のないホテルの大きな部屋にいる。首の痛みと孤独感から、どこにも行かなくなってしまったのか?鍼灸治療も諦めたのだろうか?そういう意味づけを読み取ってもいいし、ただ漠然と、男と一緒にホテルの高層階の部屋に座って、その状況をありのまま受け入れるもまた、観客の自由だ。元から整理されたホテルの部屋を、それでも男がフットカバーをベッドから外し、毛布も外して自分なりの空間に整理しなおす動きは、もう一人の男性の登場シーンの料理のダンスに呼応しているようにも見える。

そこにあるのはまずなによりも、肉体

突然、男が毛布を外したベッドの上に全裸で横たわっている。画面の外からプラスチックかビニールをいじる音が聞こえることで、男が部屋に独りではないことが分かる。そしてもう一人の、あの青年というには少し歳がいった男性が、自室ではトランクス姿だったのが、白いブリーフ一枚で画面に入ってくる。彼は滑らかな、手慣れた手つきで、男の首から背中にかけてマッサージを始める。治療のためのマッサージなのだろうか? それにしては半裸なのは奇妙、と思う観客がいてもおかしくないだろう。だが我々がもはやすっかりこの映画のリズムというか、その生理に順応している中でまたも延々と続くフィックスショットの中で、小気味好く規則的な手の動きが男の背中の肌と筋肉の上を心地よいリズムで滑り続け、曲線を描いていくのを見続けるうちに、そんな物語的な情報の解釈もまた、どうでもよくなりはしないだろうか?

「クレショフ効果」という、映画の話法の基本中の基本に関わる実験が、かつてソ連の映画作家レフ・クレショフによって行われた。名優の顔のアップのフィルムを暖かいスープのショットに繋ぐと空腹で食べ物に満足する顔に見え、死んだ赤ん坊のショットに繋ぐと痛々しい悲しみの表情に見え、同じ顔のアップのはずが裸の女性のショットと繋ぐと好色そうに見える、というものだ。ソ連モンタージュ派の基礎になった実験であるだけでなく、映画とは要するに、観客が映像の中に見出した情報を読み取ってつなぎ合わせて行くことで何かを(多くの場合は、ストーリーを)伝え、共感の感情を呼び起こす芸術だ、ということである。この効果をもっとも洗練された形で完成させたのはソ連モンタージュ派ではなく、アルフレッド・ヒッチコックだろう。

ヒッチコックに典型に現れる効率的な映画の話法とは要するに、個々のショットの中に映し出された事物の意味付けを、ショットとショットの組み合わせと映画全体の構成の中で定義づけて行くことだ。ヒッチコック自身の『ロープ』のような長回しのショットが多用される映画でも、映画の見せる映像が常にフレームで切り取られ、見せるべき物だけを見せることによって、編集したのと同じような物語的効果を生み出せる。

言い換えれば、映画は常にそこに映し出された映像に付与された意味に囚われ、我々は映画作家たちが巧妙な演出で行なっている意味付を無意識に読み取りながら映画を見ている。だからフィックスで動きのない長回しはしばしば「退屈」に感じられるのだ。そのショットから我々が読み取るべきだと無自覚に思っている意味はすぐに読み取れてしまい、新しい刺激が入って来ないからだ。現代の、作家主義的な、アーティスティックな映画となるとさらにこの意味の体系は複雑さを増す。我々は映画を飽きずに見続けるために必要な情報だけでなく、作家の「意図」や、政治的・社会的、あるいは私生活に関する「メッセージ」もまた、映像に映し出された個々の事物から読み取ろうとする。

世界をありのままに見るということ、受け入れること

『日子』はそういう現代映画的意味付け・意味読み取りの呪縛に囚われかねない映画だ。蔡明亮はカミングアウトした同性愛者で李康生がそのパートナーだというのは周知の事実だし、この映画は現にベルリン映画祭でテディ賞、つまりLBGTQを扱ったもっとも優れた映画に与えられる賞を取っている。舞台はタイで、しかももう一人の主人公はどうもタイに実はあまたいるシャム人以外の少数民族か、経済が発展したタイの都市部に周辺諸国から出稼ぎに来た移民のようにも見える。今回の李康生は首に原因不明で治療不能な痛みを抱えているが、「謎の病」というのは蔡が度々取り上げて来たモチーフだ。

だが蔡はそうしたキャメラの前にある現実をありのままに、固定された長いショットで見せながら(強いて言えばタイ語で書かれた看板はクライマックスまではほとんど目に入らないので、舞台設定は「どこかの熱帯」という以外にはなかなか認識されないだろうが)、そこにたっぷり時間をかけることで意味付けの作用を無効化して行く。

そう、映像で見えるものに意味付けを行うことは、視覚情報を限定することに他ならない。実はそこに写っていても意味付けしにくいものは、我々は実のところほとんど見ていないのだ。つまり、我々は実は映画を見ていても映像をありのままに見ているのではないし、日々の生活でも周囲を意味付と排除と文脈化の体系でしか見ておらず、世界をありのままに受け入れてはいないのだ。

例えていうなら禅の庭のようなものだ。枯山水なら岩や庭石は山や島や仏、白砂は水や川や海を表すと言われ、我々はその抽象の中に風景という具象をまず最初は、見出そうとする。だが禅僧が修行でやるようにじっとその庭に対面していると、やがて岩そのもの、石そのもの、砂そのものが見えて来る。

『日子』のとても長く、しかし「執拗」とは感じさせない固定された長回しショットは、同じような効果を我々の知覚と認識にもたらす。マッサージのシーンにたどり着いた時、我々はもはや二人の男を、一人は台湾人つまり中国系でもう一人は、というようには見ない。だからこの映画はセリフがほとんどなく、字幕もないのだ。言語は国籍を認識するもっともわかりやすい鍵になってしまう。

治療のためのマッサージなのか性的なものなのかも、この映画の中では意味を失う。そこで知ったかぶりをして本場のタイ式マッサージでは性的なサービスが含まれることもあって施術を受ける側の体の反応に柔軟に対応してくれて、などと言い出すのも、無駄だ。なぜならこの二人は、役名すらなく、つまり名前も分からない、いわば匿名の出会いどうしであっても、他に同じ人間はどこにもいない、それぞれにありのままの、彼と彼なのだから。

むしろこの映画では、意味付としては性的な行為と解釈される動きでも、それを「性的」と言っていいのかも分からないし、明らかに「愛の行為」でもあると同時に、それを肉体的な欲望と別次元の美しいもののように線引きすることもまた、この映画の生理に明らかに反するだろう。むしろこの二人の男の出会う世界において、愛とは肉体と肉体の出会いであり、肌の接触を通して相手の感情や存在そのものをありのままに認識し、お互いに自然に反応することに他ならず、つまり官能そのものに他ならない。

考えてみれば、この映画の物語的な骨子は、ゲイ・ポルノによくある陳腐で凡俗でさえあるしちゅえだ(と言うか、そう言うサブジャンルさえあってよくシリーズ化されていたりもする)。だがそれが「陳腐」なのは、そうしたゲイ・ビデオがポルノと言う意味付けをこそ商品価値として製作され、その目的で消費されるからに過ぎない。あえてポルノと同じストーリーを用いながら、蔡明亮はポルノを氐族として否定するのでも、線引きして自らの作品を差別化するのでもなく、ただ「ありのままの二人の男とその肉体」の出会いの映画を、まるで別次元のものとして提示する。そしてこの新たな傑作は、例えば『愛情万歳』のとても長い間女性が台北の公園でひたすら泣く姿を執拗に捉え続けるショットや、『浮き雲』の蛍光灯で照らされた交差する地下横断歩道のような、これまでの蔡明亮作品のビジュアルを、「あれは実はこう言うことだったのか」とまるで新しい視点で、と言うか文字通り「ありのまま」に見ることで、我々の映画体験の中で再定義することも要求するかも知れない。

つまり『日子』は、蔡明亮映画の集大成だとも言える。だがしかし、それは決してこれまでの作品を受けて、その文脈で読み解き理解し共通点を見出して、と言う意味ではなく、むしろまったく真逆だ。この映画を作ることで蔡明亮は世界をありのままに見て、受け入れ、世界を再定義して認識し直すことを我々に提案しているのと同時に、自分の映画もまたこの映画の体験を通してこそありのままに見られるのだ、と我々にひっそりと耳打ちしているのかも知れない。

チャップリンの音楽がシンプルに、繊細に、ゆっくりと響くとき

マッサージが終わり、シャワーを浴び、その後のホテルの部屋の全体を捉えたロングショットの長まわしは、この映画でももっとも美しく、マッサージのシーン以上にこの映画の本質が凝縮されたショットかも知れない。ここで金銭の授受があってもう一人の男性の方が「コップンカ」とタイ語で「ありがとう」を意味する声を発するからと言って、「やはり売春だったんだ」と安易に意味付けしてしまう観客は、この映画をここまで見たときにはもういないだろう。万が一にもそう言う誤解がないように、この映画でほとんど初めて、ここで街の騒音の一部ではない音楽が、美しく響く。

実は、映画ファンでなくとも誰もがどこかで聞いたことのある、とてもポピュラーな、元は映画音楽だが、、それがこのメロディだと気づくまでにも、蔡はたっぷり時間をかける。とてもゆっくりと、一音一音を確かめるように、シンプルで繊細な音で奏でられるからだ。

既存の意味付けの体系から我々の視覚認識を解放する卓越したメカニズムを緻密に考え抜いて構築して来たこの映画(編集点の絶妙な選択などに、蔡明亮が30年以上映画作家であり続けて来た経験が反映されているのは疑いようがなく、その意味で『日子』は最上級の職人芸の産物でもある)で、このたどたどしく聞こえ始めた音が音楽になるメロディだけは、やはりそこにある映画史的な意味を認識せざるを得ない。なぜなら、チャールズ・チャップリンの『ライムライト』の音楽、チャップリンがあのチョビ髭の浮浪者の定番キャラクターを棄てた2本目の映画で、主演作としては初の非コメディの、本格メロドラマ悲劇の、その主題曲だからだ。しかも『ライムライト』はそのものズバリ、チャップリンが自らの「老い」をテーマとした作品であり、前作『殺人狂時代』とこの映画で、アメリカ映画界での居場所を失ってしまうことにもなった。

その『ライムライト』のメロディが、この映画では二度聞こえる。とてもゆっくりと、一音一音を確かめるように、シンプルで繊細な音で。つまり、メロディそのものだけを純化し、ありのままに。

ツァイ・ミンリャン監督

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