この世界のやさしさについて

1 冷たい風ばかりのこの世に
  君たちはみな丸裸で送り出された
  無一物で凍えてころがっていた君たちに
  女がおむつをあてがってくれた

2 誰も君たちを呼んだりしなかった 君たちは求められていなかった
  いっしょに道づれにしたりもしなかった
  この世で君たちは見知らぬ人だったが
  男がきて片手をひいてくれた

3 冷たい風ばかりのこの世から
  君たちはみなかさぶただらけのからだで去っていく
  ほとんど誰もがこの世が好きだったが
  二つの手で土をかけられてしまう

ーーベルトルト・ブレヒト「この世界のやさしさについて」(1920)

反歌

ぼくらはつつましく「こうなのだから これはこのままだ」と
自分に言ってきかせるべきなのだろうか
盃を前に見ながら 渇きを我慢し
満ちた盃でなく空のに手をのばすべきなのか?

戸外で誰にも招かれず
寒気のなかに座っているべきなのか
お偉い方たちがわれわれにふさわしい
悩みと楽しみをきめてくださるからという理由で?

それよりもやっぱり望みたいことは望み
どんな小さな喜びでも放棄せず
悩みの元凶たちから断固身をそむけ
この世をついにわれわれの住みいいものに
することのほうがましではないかと思う

--ベルトルト・ブレヒト「この世界のやさしさについて」の反歌(1955)

画像1: photo: Joss Barratt, Sixteen Films 2019

photo: Joss Barratt, Sixteen Films 2019

ケン・ローチ作品に出てくる3本足の犬のこと

今年不惑を迎えた私が新人として社会に出た1990年代後半、世間はバブル崩壊後の経済低迷期のなかで「リストラ」の嵐が吹き荒れ、企業各社が新規採用を削る就職氷河期と呼ばれていた。その後、2000年代に入り、いつのまにかバブル崩壊後の歳月は「失われた10年」と名付けられ、その時代に多感な青春期を送った我々団塊ジュニアの世代は「ロスト・ジェネレーション(失われた世代)」と呼ばれるようになる。だが、現在の視点から振り返ってみれば、それは「失われた」のではなく、それまで続いていたひとつの時代の終焉であり、新たな時代の始まりだったことがはっきりと分かる。つまり、それは現在に繋がる新自由主義=ネオリベラリズムへの傾斜と格差社会の移行、「個人の自由」と「自己責任」の名において遂行される現代の奴隷制度の始まりだったということが。

引退宣言を撤回して取り組んだケン・ローチの新作『家族を想うとき』が提起している「ギグ・エコノミー」やそれに従事する「ギグ・ワーカー」という問題も、この「失われた」時代に定着したフリーター的価値観の延長線上にある、労働力の安さを至上とした大企業が行う新たな搾取にほかならない。思考やライフスタイルのすべてが市場原理によって支配されたその果てに待ち受けていたのは、例えば2016年に起きた相模原での言語を絶する事件が象徴するような、「役に立たない=需要のない」存在を排除し、弱者を踏みにじる自由が公然と是認される現在の社会である。

画像2: photo: Joss Barratt, Sixteen Films 2019

photo: Joss Barratt, Sixteen Films 2019

失われた時代、失われた世代。手に入れるはずの何かを喪失してしまったという感傷を植え付けられたまま、嫉妬や羨望を募らせ、憎悪と怨恨の刃を自他へと向けていく者たち。しかし、そんな感傷や怨恨など足かせにもならぬと地上を駆ける、文字通りに足を「失った」3本足の犬がローチの作品にはしばしば登場する。前作『わたしは、ダニエル・ブレイク』(16)や『ルート・アイリッシュ』(10)に、『麦の穂をゆらす風』(06)、そしてもちろん本作も然り。リーマンショックによって「失われた生活」を送っている本作のターナー一家の日常にも、老人に連れられて散歩をしている3本足の犬が登校する娘ライザとすれ違う。自作に犬を登場させる理由をローチは、「あるとき3本足の犬が偶然カメラの前を横切り、それを見たスタッフたちが笑ったことがあったから」と説明している。映画のなかで苦境に喘ぐ人々をよそに、必死に歩く3本足の犬。それ以来、ローチは彼らの「悲惨な状況を和らげるために、犬を入れるようになった」。

思えば3本足の犬以外にも、ローチの映画には頻繁に犬が出てくる。前作にはダニエル・ブレイクが自宅前の庭で糞をする犬と飼い主を叱りつける場面がある。あるいは、『やさしくキスをして』(04)で、商売看板におしっこを引っかける犬たちを懲らしめようと看板に電流を流すパキスタン移民1世の老父がいる。前作の最後にシングルマザーのケイティがダニエルの「遺言」として彼の葬儀で読み上げる弔辞にもまた、「(私は)犬ではない。人間だ」という台詞があったし、『ジミー、野を駆ける伝説』(14)でも、主人公であるジェームズ・グラルトンが「(犬のように)ただ生存するためでなく、喜びのために生きよう」と労働者を鼓舞する場面がある。さらにいえば、『レイニング・ストーンズ』(93)の冒頭で、狩猟場から必死に羊たちを盗もうと追いかける失業中の中年男ボブもまた、一種の「犬」といえるかもしれない。チャップリンの『犬の生活』(1918)を例に挙げるまでもなく、そもそも英語の「犬=Dog」という単語には良いイメージがない。だから、貧苦を生きる弱者や労働者を描き続けてきたローチ作品に、端的な比喩として犬が登場するのはごく自然のように思える。

画像3: photo: Joss Barratt, Sixteen Films 2019

photo: Joss Barratt, Sixteen Films 2019

生きるために地を行く犬がいるいっぽうで、ローチは誰にも飼い慣らされることのない超然とした存在を空に見る。劇映画の代表的な名作『ケス』(69)において、望むべき未来を持てない少年キャスパーはハヤブサと交流を深めていくなかで教師に言う。「ケス(=ハヤブサ)はペットではない」と。気高く、自由で獰猛、物言わず大空高く舞うその静けさにローチは尊厳を見出す。超然たるハヤブサと苦闘する犬。だがローチはそのいずれにも理想や正しさを見ることはなく、地と空のあいだで生きる人間とともにたえず逡巡し、我々に問いかける。彼にとっては、映画によって観客に安易なカタルシスを与えることは害悪だとさえいえるだろう。生きることの矛盾を矛盾のまま引き受けたうえで、その先を考え、想像させること。それは喜劇と悲劇、あるいは優しさと残酷さといった相反する関係の総体として社会や人間を見るということでもある。

『ケス』の少年キャスパーが通う学校で行われるサッカー授業の場面。生徒たち相手に本気になり、意地でもシュートを決めようと躍起になる教師の子どもじみた様は腹がよじれるほど可笑しいが、その同じ彼が生徒たちに次々と罵声を飛ばし、体罰を振るう様は残酷で悲しい。在宅ケアワーカーとして働く本作の妻アビーが、それまでの包容力や優しさをかなぐり捨てて愛する夫のために上司に暴言を吐く場面にも、それと同様の可笑しさと悲しさが染みついている。『大地と自由』(95)で描かれたスペイン内戦や『麦の穂をゆらす風』のアイルランド内戦、『この自由な世界で』(07)でのシングルマザーと不法移民をめぐる関係でも、立場や状況によってお互いに相反する存在になる矛盾をそのまま矛盾として見つめるその眼差しは変わることはない。そこでは左翼が左翼を裏切り、労働者と労働者が対立し、搾取される側は容易く搾取する側へと回る。斯様にして、人間を見つめるローチの透徹した眼差しはどこまでも優しく、そして厳しい。

画像4: photo: Joss Barratt, Sixteen Films 2019

photo: Joss Barratt, Sixteen Films 2019

このような矛盾した関係や人間の正反全体を見つめて描こうとする姿勢には、ローチと同じ社会主義の作家であるベルトルト・ブレヒトという偉大な先達がいる。第一次世界大戦後、20代のときに書いた「この世界のやさしさについて」という詩で、無情なる世界と我々が行き着く果ての虚無を見据えたブレヒトが、なぜ死の前年である晩年になって、その「反歌」を書いたのか。私たちはそのことの意味をもう一度よく考えてみる必要があるのではないか。配送を管理する端末機を「銃」と呼び、本部の上司からは「兵士」と呼ばれる本作の宅配ドライバーたち。彼らはいったい誰と戦っているのか。ラストに提示される原題「不在連絡票(Sorry We Missed You)」に込められた意味を、現代の新自由主義システムに取り込まれたなかで、なおもそこから愛情や人間性を見出すことはできると捉えるのか。あるいは、我々はもはやそのシステム内部の言葉でしか愛情や人間性を表現できないと捉えるのか。ローチの問いかけは答えを吐きだすことを拒絶し、観る者の胸に食い込む。

「矛盾こそが希望だ」とブレヒトは言った。しかし個人や自由の抱える矛盾が軋みをあげて崩壊しているいま、もはや希望だと断言できる者はいないだろう。現状を喜劇や悲劇として笑い涙する前に、目の前を3本の足で歩み行く犬の生を見つめよとローチは促す。矛盾の軋みに耳をすませ、安直な答えに飛びつかず、自ら考え、行動すること。『麦の穂をゆらす風』に出てくるアイルランド共和軍(IRA)の闘士のひとりは、野原での銃撃訓練の際に仲間たちに言う。「見て(Look)、聞いて(Listen)、学ぶんだ(and Learn)」。内戦下の理不尽な暴力と報復の連鎖のなかで、敵から身を守るためには敵を知らねばならない。本作で介護士の妻アビーもまた、お世話をしているお年寄りに対して確信を持ってこう言う。「私はあなたに学んでいる」のだと。答えではなく、問いかけから生まれる学び。これこそ、映画を通して観客に何を伝えるのかというローチの姿勢そのものだといえる。

かつて「失われた世代」と呼ばれてからおよそ20年の歳月が過ぎ、中年を迎えた私は現在「人生再設計第一世代」だという。「お偉い方たち」の意向と忖度によって身勝手に失われ、再設計される我が犬の生活と人生。もういい加減、奴らから押し着せられた悩みと楽しみは放り捨てて、我が身を見つめ直さなければならない。忘れるな、3本足の犬も喜びに歌い踊り、怒りをもって噛みつくことができるのだ。

画像5: photo: Joss Barratt, Sixteen Films 2019

photo: Joss Barratt, Sixteen Films 2019

ストーリー

イギリス、ニューカッスルに住むある家族。父のリッキーはマイホーム購入の夢をかなえるために、フランチャイズの宅配ドライバーとして独立。母のアビーはパートタイムの介護福祉士として、時間外まで1日中働いている。家族を幸せにするはずの仕事が、家族との時間を奪っていき、高校生のセブと小学生の娘のライザ・ジェーンは寂しい想いを募らせてゆく。そんななか、リッキーがある事件に巻き込まれてしまうーー。

『家族を想うとき』予告編

画像: ケン・ローチ監督引退宣言を撤回してまで描きたかった美しく力強い家族の絆-『家族を想うとき』90秒予告 youtu.be

ケン・ローチ監督引退宣言を撤回してまで描きたかった美しく力強い家族の絆-『家族を想うとき』90秒予告

youtu.be

監督:ケン・ローチ
脚本:ポール・ラヴァティ 
出演:クリス・ヒッチェンズ、デビー・ハニーウッド、リス・ストーン、ケイティ・プロクター

2019年/イギリス・フランス・ベルギー/英語/100分/アメリカンビスタ/カラー/5.1ch/原題:Sorry We Missed You/日本語字幕:石田泰子
提供:バップ、ロングライド
配給:ロングライド
© Sixteen SWMY Limited, Why Not Productions, Les Films du Fleuve, British Broadcasting Corporation, France 2 Cinéma and The British Film Institute 2019

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