奈良の十輪院という、本堂が国宝のお寺の住職にちょっと驚く話を聞いた。テレビの撮影で本尊の前でインタビューを受けたそうなのだが、そこで若いアナウンサーにいきなり「これはなんですか?」と質問されたという。

ちなみに十輪院の本尊は、平安時代の石造の地蔵菩薩だ。歴史的に貴重だし美しいのも間違いないが、我々素人の目にも、見るからに、いわゆる石の「お地蔵さま」だ。確かにお寺の堂内の像が石造というのはいささか珍しいし、上と左右を様々な仏像や梵字(密教で使う、元はサンスクリット語の文字)を浮き彫りにした石組みで囲まれている(鎌倉時代に追加されたもの)のは確かに、たとえば梵字がなんだか分からないというのなら、まだ分かるのだが…。

画像: 地蔵菩薩立像 鎌倉時代14世紀 奈良国立博物館蔵 よく見ると顔や胸は肌色で衣全体にも華やかな彩色が施されていたことが分かる

地蔵菩薩立像 鎌倉時代14世紀 奈良国立博物館蔵 よく見ると顔や胸は肌色で衣全体にも華やかな彩色が施されていたことが分かる

住職の危惧も、信仰以前の問題だった。つまり、いくらなんでも石のお地蔵さまを「これはなんですか?」はない。しかも「視聴者には知らない人もいる」とディレクターが言い出したそうで、住職は信頼できなくなって以後の取材を断ったそうだが、そもそもそういう視聴者が、奈良のお寺を紹介する観光番組を見るのだろうか?

とはいえ、いくらなんでも「石のお地蔵さま」も分からないなんてことはさすがに…とは言うものの現代では生活の中で仏像を見たり接する機会はどんどん減っている。石の「お地蔵さま」が「これはなんですか?」はともかく、仏像といえば漠然と「みんな同じ」に見えてしまうことくらいだったら、今ではむしろ多数派だろう。

いわゆる「仏さま」つまり如来像なら、釈迦如来なのか阿弥陀如来なのか、あるいは薬師如来なのか等々の見分けがつかないのも、昨今ブームの「御朱印」コレクターでも、その朱印に書かれた名前で初めて分かる、と言う人は少なくない。一日で何箇所も回るので、混乱することはよくあるらしい。

画像: 地蔵菩薩立像 平安時代10〜11世紀 奈良・大福寺蔵(奈良国立博物館寄託)重要文化財

地蔵菩薩立像 平安時代10〜11世紀 奈良・大福寺蔵(奈良国立博物館寄託)重要文化財

それに地蔵菩薩つまり「お地蔵さま」ならさすがに見分けがつきそうとは言っても、坊主頭の仏像だからと言うのも一般常識までは言えそうでも、同じ地蔵菩薩立像でもこの二枚の写真はそれぞれに鎌倉時代と平安時代で、比べてみるとずいぶん違う。

どちらの像も奈良国立博物館の、「なら仏像館」で見ることができる。

鎌倉時代の像は流麗な印象で、リアルに再現された衣をよく見ると、細部に残った彩色がとても繊細で優雅だ。平安中期の像は重厚で、衣の線は整理されて様式化されていて、衣越しに見える太腿の存在感が凄い。「みんな同じに見える」と思われがちな日本の仏像は、同じ地蔵でもほんの2体を見比べるだけでも、こんなに個性的な違いがあることに気づかされる。

同じモノを見ているつもりでも、見えるものが変わって来るのだ。

仏像を美術品として鑑賞するにせよ、信仰の対象をそこに見るにせよ、主観の問題であるし、主観で見ること自体になんの問題もない。問題なのはむしろ、我々の主観が作用するだけの情報量を読み取れていない状態にありがちなところだ。

写真一枚目の鎌倉時代の像の彩色は、特に襟元にあしらわれた金の文様が鮮やかに目を惹く。そこに引かれて凝視していると気づかされるのだが、この金の装飾が和服の襟のあわせのようになっているところも、300年ほど前の平安時代中期のずんぐりとした像とは異なる。このように服装が和服風になる傾向は、中世以降には地蔵菩薩だけでなく、毘沙門天、弁財天、大黒天などでも見られる特徴なのだそうだ。

画像: 多聞天立像 平安〜鎌倉時代 11〜12世紀 奈良国立博物館蔵 重要文化財 とてもダイナミックな動きのある個性的なポーズで、金箔と全身に施された彩色がよく残っている

多聞天立像 平安〜鎌倉時代 11〜12世紀 奈良国立博物館蔵 重要文化財
とてもダイナミックな動きのある個性的なポーズで、金箔と全身に施された彩色がよく残っている

写真は平安時代後期か鎌倉時代の多聞天立像だが、後の時代にはこの鎧兜姿の鎧はエキゾチックなインドか西域風のままなのが、兜が日本の兜の形になった作例は、確かに筆者もずいぶんあちこちで見て来た。中にはその兜が取り外し可能というか、別材で兜が脱げるようになっている像もある。

折しもこの初春、奈良国立博物館では仏像がテーマの特別展「毘沙門天 -北方鎮護のカミ-も開催されている。

四天王の一員としては「多聞天」だが、単体で「毘沙門天」としても信仰されて来た、元はインドの古代神、転じて仏教の護法善神(守護神のようなもの)。サンスクリット語では वैश्रवण(ローマ字表記はVaiśravaṇa)、読みはヴァイシュラヴァナで、「多聞」はその意味を漢訳したもので、「びしゃもん」は発音を転写した呼び名だ。

同じ尊格の「毘沙門天=多聞天」、つまり同じ教義上の定義で、片手に塔を捧げてもう一方の手には武器、という約束ごとは決まっていても、ポーズだけ見ても多種多様で、時代時代や寺院、寄進者、それに仏師によって様々な表現があったことが、全国から集められた実物の像で比較できるというのだから、非常に興味深くて実に楽しみな展覧会だ。

✴︎3月22日(日)まで。「なら仏像館」も見られる同展覧会の招待券のプレゼントあり。詳しくは記事末尾をご覧ください

筆者も知っている有名なところでは、京都の東寺の、元は平安京の南の正門だった羅城門(羅生門)の守護神だった唐から伝来した兜跋毘沙門天(国宝)は、中国西域のトルファンに現れた毘沙門天の姿と言われ、真正面を向いて左右の対称性を意識したシャープな形相とウェストを絞ったスマートな体型がなんともカッコいい。胴体が鎖かたびらの表現だろうか、三角形を基調とした規則的なパターンで覆われている、その精緻な彫刻も見事な像だ。

和歌山・道成寺の9世紀の毘沙門天(重要文化財)は、横を向いた顔の鼻が大きく角ばっていて、猫とガマガエルを足して二で割ったような、あるいはヒョウの顔のように見える異形の容貌がとてもモダンでユーモラスだ。全体は黒々として重厚、直角に肘が曲がった右腕に、左腕は下に向けて真っ直ぐに伸ばされ手首が人間ならあり得ない形で外向きに曲げられている。まるで1920年代の社会主義芸術を想起させるモダンな印象の、とても個性的な像だ。

この2体の例だけでも表現がまったく異なっていて、知らなければ「同じ神様」と気づかないかもしれないほどだし、これも国宝の京都の鞍馬寺の毘沙門天立像(平安時代11世紀)は、これまたまったく異なった、威風堂々たる姿で、遠くを見るように左手を目の上にかざしている独特のポーズだ。

また東大寺と浄瑠璃寺のそれぞれにから、二体の毘沙門天が背中合わせにくっついて前後に睨みを効かせた不思議な像や、京都・清涼寺の珍しい坐像の毘沙門天も出品されているらしい。

画像: 誕生釈迦仏立像 飛鳥時代 7世紀 奈良国立博物館蔵 釈迦(ゴータマ・シッダールタ)が産まれた直後に立ちあがって上と下を指差し「天上天下唯我独尊」と言ったという伝承に基づく像。その後木像が主流となる日本の彫刻だが、誕生仏は花祭り(釈迦の誕生日)に頭から甘茶をかける習慣のためか、銅で作られ続ける

誕生釈迦仏立像 飛鳥時代 7世紀 奈良国立博物館蔵
釈迦(ゴータマ・シッダールタ)が産まれた直後に立ちあがって上と下を指差し「天上天下唯我独尊」と言ったという伝承に基づく像。その後木像が主流となる日本の彫刻だが、誕生仏は花祭り(釈迦の誕生日)に頭から甘茶をかける習慣のためか、銅で作られ続ける

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