先週末19日から絶賛公開中の『ドリーミング村上春樹』。世界50言語に翻訳されている村上春樹の翻訳家のひとりであるメッテ・ホルムを追ったドキュメンタリー映画だ。監督はインド人の父を持つデンマークの映画作家ニテーシュ・アンジャーン。翻訳家を紹介するような普通のドキュメンタリーにはしたくなかったと語る彼の言葉通り、村上春樹の小説世界と翻訳家の日常が互いに浸食しあい、観る者を言葉=他者の深淵へと誘う独特の作品に仕上がっている。

つねづね自らを異邦人と感じ、村上春樹の小説の登場人物と自分を重ね合わせていたというニテーシュ。インタビュー中、腕や手のひらに自ら語る言葉の数々を熱心に書きとめ、淀みなく言葉を紡いでゆく彼の姿は、思念や想像から生まれた言葉といまここにいる自分の肉体を繋ぎあわせようとしている、もうひとりの「翻訳家」の姿に見えた。来日した彼に、村上春樹の小説と翻訳の共通点や秘密について伺った。

画像1: ©︎Final Cut for Real

©︎Final Cut for Real

架橋する存在としての「かえるくん」

ーー本作はひとりの翻訳家メッテ・ホルムを追ったドキュメンタリーであるにとどまらず、非常にユニークな形で「翻訳」という行為の本質を突くと同時に、作家・村上春樹の小説の核心をも見事に表していると感じました。本作は『風の歌を聴け』(79)の冒頭の一文「完璧な文章は存在しない、完璧な絶望が存在しないようにね。」がひとつのキーワードになっていますが、村上が最初の小説である本書の冒頭部分をまず英語で書きはじめたように、小説家として書くことと翻訳することは彼のなかで密接に繋がり、作家としての両輪であるといえます。

本作のパンフレットに掲載されているインタビューでニテーシュ監督は、翻訳家メッテと村上春樹の小説世界を繋げるための「『何か』が足りないという感覚」があったために、『かえるくん、東京を救う』に登場する「かえるくん」が現れることになったとおっしゃっていますが、そのような小説家と翻訳家=読者を繋ぐ媒介者が生まれた過程について、もう少し詳しくお聞かせいただけますでしょうか。

ニテーシュ・アンジャーン(以下、ニテーシュ)
今回の作品が出来上がるまでにはとても長いプロセスがありました。私は若い頃から村上春樹の小説の大ファンであると同時に、その翻訳家であるメッテにも同じくらい魅了されていました。なぜなら、彼女の翻訳があったからこそ、私は村上の小説を読むことができたからです。映画をつくるためにはまず発端となるアイデアが必要ですが、それを観客に届けるためには、そのアイデアを説明し、コミュニケートする力がなければいけません。製作の当初、私はメッテに2、3度密着で撮影をして、フッテージを撮りためていました。しかし私自身、その段階では翻訳についての映画を撮りたいという構想はあったものの、具体的にどのような形の作品になるのかは見えていませんでした。どうすれば、たんに翻訳家が村上春樹の小説を訳している姿を伝えるだけではなく、より深い部分で翻訳という行為を伝えることができるのか。そしてまた、村上の小説を読んでいるときに人々が感じている世界観と、メッテの翻訳という仕事をいかに繋げられるのか。ときには村上の小説を映画として「リコンストラクション=再構築」することも考えましたが、小説と翻訳という両者を繋ぐ架け橋をひたすら問い続け、悩んでいるときに、かえるくんのアイデアが生まれたのです。ある夜、私は地上高い高層ビルの上から東京の街を心配そうに眺めているかえるくんの夢を見ました。そこで初めて、翻訳家の仕事という現実=リアリティと、村上春樹の小説世界という想像=イマジネーションを架橋する存在を発見したのです。

画像2: ©︎Final Cut for Real

©︎Final Cut for Real

画像3: ©︎Final Cut for Real

©︎Final Cut for Real

ーーいまのお話を伺って、「小説とは三者協議でなければならない」という村上春樹の言葉を思い出しました。彼は小説が成立するためには小説家と読者の二者だけでは不十分であり、その両者を繋げる存在が必要だと言っています。小説家と読者のあいだに立つその存在とは、彼曰く「うなぎ」であると。翻訳家という存在も原作と読者を繋ぐ役割を担っていますし、本作もそのように第三の存在を媒介にして生まれたことを考えると、そこには非常に共通したものがあると感じます。

ニテーシュ
「うなぎ」ですか(笑)。かえるくんは現実と想像を繋ぐ存在であると同時に、「影」というもうひとつの大切なコンセプトを表しています。翻訳家とはつねに小説家の影にいる存在です。アンデルセンの短編小説『影』でも描かれているように、ときに影は人間となり、人間は影になります。私は若い頃からさまざまな文学に接することで、自分の世界を広げていきました。しかし、その当時は自分の愛読する書物の背後に翻訳家という存在がいることにはまったく気づきませんでした。メッテのレクチャーに参加して、初めてその存在に光が当たったのです。私と同じように、本作をご覧になった観客の方々もまた、小説の背後にいる翻訳家という存在の大きさを感じとっていただけるのではないかと思います。

画像4: ©︎Final Cut for Real

©︎Final Cut for Real

翻訳は人間が行うもの

ーーさらに興味深いのは、その影である翻訳家の仕事が、まさに村上の小説中で描かれているかえるくんの使命と同じであるという点です。かえるくんの行なっている仕事とは、『ダンス・ダンス・ダンス』(88)において「文化的な雪かき」と呼ばれている仕事と同じように、誰に感謝もされない裏方の役割だけれど、誰かが引き受けなければ大地震のようなカタストロフを引き起こしてしまうようなものです。先に言及したパンフレットのインタビューでも、ニテーシュ監督はかえるくんのことを「言葉と想像力で人間として持つべき信念を伝えてくれる」とおっしゃっていますが、私たち人間にとって、「翻訳」とはどのような意義があるとお考えでしょうか。

ニテーシュ
私が翻訳という仕事に魅せられた理由は、言語や文法といった技術的なものだけでなく、そこに感性的、詩的なものが必要な行為だからです。それは本作のメッテを見ればよく分かると思います。例えば「文章」という単語に対して、それをどのように翻訳するのか。自らの手で行った翻訳について、きちんと責任を負ったうえで仕事をしている彼女の姿勢こそ、翻訳家のあるべき姿だと私は思います。また、翻訳家は自分自身もひとりの「書き手」である以上、対象である小説家を敬愛していなければなりません。翻訳家自身がその小説を愛し、理解していなければ、それを読む読者の気持ちは分からないのですから。読者の気持ちが分からなければ、小説を翻訳したところで、それを伝え届けることはできないのです。

もうひとつ付け加えると、翻訳は人間が行わなければならないと思います。近年はグーグル翻訳をはじめ、コンピュータでの翻訳が活発になっていますが、国を分断し、外交を途絶させるような発言をしている政治家たちが数多く存在するなかで、人の手を介した翻訳でなければ伝わらないことがあるのも確かです。逆にいえば、コンピュータ翻訳では、誤解や過ちがそのまま相手に伝わってしまう可能性が高いといえます。例えば、本作をエストニアで上映した際、グーグル翻訳によってエストニア語のタイトルが「Dreaming of Fucking」となってしまいました(*註:本作の原題は「Dreaming Murakami」)。私が最も好きな村上の小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985)でも描かれていたように、今日、世界はますます「コンピュータ脳」化しています。私たちはウェブサイトや小説のページをコピペしてグーグル翻訳にかけ、それで何かを「理解した」気になっている。しかし、それはまったくの「誤訳」かもしれないのです。

画像5: ©︎Final Cut for Real

©︎Final Cut for Real

翻訳は「邪悪さ」に対抗する武器

第二次世界大戦中に亡命先で自殺したオーストリア出身のユダヤ系作家、シュテファン・ツヴァイクが大戦中に記し、遺著となった『昨日の世界』(1942)という回想録があります。彼は20世紀に起こった二つの世界大戦を通じて、人間の「邪悪さ」を目の当たりにしました。ナチスドイツがヨーロッパをはじめ世界を脅かし、人間性や希望のすべてが消失したどん底の戦時下にあって、彼は世界を支配しているその邪悪さを大局的な見地からマクロに見つめ、分析するのではなく、ヒトラーとナチスが台頭した1930年代から今ここに至るまでに自らが感じた「時間の特質(quality of the time)」をもとに描こうとしました。それはつまり、いまの自分がいる時代の渦中に身を置き、その日々のなかで見聞きし、感じる変化や些細な出来事について思いを巡らせるという姿勢です。ホロコーストのような大量虐殺は突然起こったのではありません。人間の邪悪さは非常にゆっくりと成長します。なぜなら、それは突然どこかからわき起こるものではなく、私たちが生きている社会のなかで段階的に大きくなるものだからです。ツヴァイクはそのことを肌身に感じていたからこそ、『昨日の世界』を書き残しました。そして翻訳という観点からいえば、彼はヨーロッパをはじめとしたさまざまな国の詩や文学を翻訳し、非合法的に地下出版していた新聞に掲載したりしました。彼にとっては翻訳こそが、当時の世界に蔓延している非人間的な邪悪さやプロパガンダに対して、人間性を保つことのできる唯一の「武器」だったのです。

『1Q84』(2009-10)の「リトル・ピープル」や『かえるくん、東京を救う』における「みみずくん」という存在が表しているように、一人ひとりは小さな存在だとしても、彼らが集まると途轍もなく邪悪なものを生み出す可能性があります。一匹のみみずが生む微細な振動が、一斉に集い揺れると世界を滅亡させるほど巨大な振動になるように。私は村上の小説をあまり分析したいとは思いません。ただ、彼の小説を読んで感じたことは信じていたい。それは本作のコンセプトでもあります。先ほど架橋する存在として「かえるくん」を登場させたとお話ししましたが、小説のなかでかえるくんは「理解しあうのはとても大切なことです」と言っています。また、『1Q84』で二つの月が現れるのは、人が愛を信じ、愛を感じた瞬間でもあります。私たち人間はみな邪悪になる資質を持っています。しかし、そのいっぽうで互いに理解しあい、愛しあうことで、その邪悪さに抵抗し、逃れることも可能なのです。それを可能にする鍵こそが、詩や小説といった言葉の持つ力であり、ツヴァイクやメッテが行なった翻訳という行為なのではないでしょうか。

画像6: ©︎Final Cut for Real

©︎Final Cut for Real

画像7: ©︎Final Cut for Real

©︎Final Cut for Real

ーーお話を伺っていると、日本を含めたいまこの世界で起こっている現状を想起せずにはいられません。私たちが気がつかない、あるいは気づいていないふりをしているうちに、日々邪悪な物事が次々と進行しているように感じます。

ニテーシュ
現在のデンマークやスカンジナビアも似たような状況にあります。いまの世界を動かしている大国の政治的リーダーを見ても分かりますが、彼らはますます「強い言葉」を使うようになっています。ツヴァイクが『昨日の世界』を書いていた第二次世界大戦中も、ヒトラーは自らの発言が含んでいる過激さ、いわばモラルの「境界水域」を段階的に引き下げていき、それがやがて「水晶の夜」と呼ばれるユダヤ人排斥の暴動へと繋がっていきました。本作でメッテが訪れたバーでも、私は日本語が分からずに撮影していましたが、メッテやバーのオーナーの雰囲気や身振りから、いまの日本が少しずつ右傾化しているということは感覚的に理解できました。「強い言葉」が力を持って飛び交ういまの時代、増殖する邪悪さに対抗し、非人道的な社会と戦うために作家やアーティストがなすべきことは、日々のなかから個々人がそれぞれに作品をつくり、発表し、それを集結させることだと思います。リトル・ピープルやみみずくんと同じように、小さな存在が集うことで邪悪なものが生み出されるならば、善なるものをも生み出せるはずですから。

(聞き手・文・構成=野本幸孝)

画像8: ©︎Final Cut for Real

©︎Final Cut for Real

ニテーシュ・アンジャーン(映画監督)
ドキュメンタリー作家、1988年生まれ。現在コペンハーゲン在住。デンマーク国立映画学校卒業。2014年にデンマークの永住権を放棄して祖国インドに帰国する父親を追ったドキュメンタリー映画『Far from Home』を初監督。コペンハーゲンで開催されている北欧最大のドキュメンタリー映画祭CPH:DOX2014でプレミア上映される。2017年に『ドリーミング村上春樹』を完成させ、世界中の映画祭で上映し、トロントで開催される北米最大のドキュメンタリー映画祭Hot Docsで観客賞を受賞する。

メッテ・ホルム(翻訳家)
デンマーク生まれ。二人の娘の母。コペンハーゲン大学で文学修士号と人類学学士号を取得。2001年以降デンマークで出版された全ての村上春樹作品の翻訳を手がける。翻訳歴は、『⾵の歌を聴け』、『ねじまき⿃クロニクル』、『スプートニクの恋⼈』、『ノルウェイの森』、『海辺のカフカ』、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、『1Q84』、『騎士団長殺し』など多数。その他にも、⼤江健三郎、吉本ばなな、川上弘美、東野圭吾などの作品を翻訳。今後は村⽥沙耶⾹、多和⽥葉⼦の作品の翻訳も決定している。

『ドリーミング村上春樹』予告編

画像: 10/19公開『ドリーミング村上春樹』公式予告編 youtu.be

10/19公開『ドリーミング村上春樹』公式予告編

youtu.be

ムラカミ・ワールドを巡る冒険。

村上春樹の翻訳家のメッテ・ホルムは1995年、『ノルウェイの森』と出会って以来、20 年以上村上春樹の作品をデンマーク語に翻訳してきた。村上春樹の作品はこれまで世界50 ⾔語以上に翻訳されてきたが、そのほとんどが英語からの翻訳となり、メッテのように⽇本語から直接翻訳することは珍しかった。映画は2016年、村上春樹がアンデルセン⽂学賞を受賞し、デンマークを訪れ王⽴図書館でメッテと対談する瞬間と、同時期にメッテが村上春樹のデビュー⼩説『⾵の歌を聴け』を翻訳する貴重な姿を捉える。村上春樹作家活動40周年に劇場公開される特別なドキュメンタリー。

世界最大級のドキュメンタリーの祭典Hot Docsで観客賞受賞。“完璧な翻訳”を追求する彼女の姿に世界中の読者が共感

“完璧な⽂章などというものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね”。メッテは『⾵の歌を聴け』の⼀⽂について想いをめぐらせる。現実と空想の世界が重なり合う村上春樹の世界観は翻訳家によって解釈が異なる。メッテは世界中の村上春樹の翻訳家たちと議論を重ね、村上春樹の世界を求めて⽇本を訪れる。村上春樹の故郷の芦屋を歩き、⼩説の舞台となる地を巡る。メッテを追うカメラは、次第に村上春樹の⼩説に描かれているパラレルワールドを描写する。深夜のデニーズ。バーカウンター。古いレコード。ピンボール。地下鉄。⾸都⾼速道路。公園の滑り台。巨⼤なかえるくん。そして夜空に浮かぶ⼆つの満⽉。メッテは独り村上春樹の世界に潜り込んで⾏くーー

監督:ニテーシュ・アンジャーン
配給:株式会社サニーフィルム
2017年/デンマーク/デンマーク語、⽇本語、英語、ノルウェー語/⽇本語字幕/カラー/60分/クリエイティブ・ドキュメンタリー
©︎Final Cut for Real

新宿武蔵野館、ヒューマントラストシネマ有楽町、YEBISU GARDEN CINEMAほか、絶賛全国ロードショー中

This article is a sponsored article by
''.