「25年目の『悲情城市』〜侯孝賢が仕掛けた今も新鮮な「目から鱗」の台湾史」

画像: 東京フィルメックスでの侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督 中央

東京フィルメックスでの侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督 中央

台湾ヌーヴェルヴァーグから30年、まったく古びることのない現代映画史

あらためて、1980年代半ば、侯孝賢の『風堰の少年』、エドワード・ヤンの『台北ストーリー』辺りから、ヤンの遺作となった『ヤンヤン 夏の思い出』の2000年に至る台湾ヌーヴェルヴァーグというのは凄いものだったと、東京フィルメックス映画祭で『悲情城市』を大スクリーンでは久々に見て、改めてそう思う。

1920年代ドイツ映画、1930年代のアメリカ、フランス、日本それぞれの黄金時代や、戦後まもなくのイタリアのネオ・レアリズモ、1950年代末からの本家ヌーヴェルヴァーグ(フランス)と、相前後したアントニオーニら新しいイタリア映画の衝撃、70年代のアメリカン・ニューシネマといった、映画史上の新たな創造のムーヴメントの最後が、台湾ヌーヴェルヴァーグだったのかも知れない。それらの映画は登場した時にその新しさに衝撃が走るだけでは終わらない。

2015年暮れに上映された『悲情城市』が、時代を超えて「新しい」し「凄い」のは、作られて25年経とうが現代に見る観客の世界観を揺さぶり、人生を変えてしまう力を持っているからだ。

またこの映画の場合、そこで明かされる日本の敗戦から中華民国政府の台湾遷移までの台湾と中国本土との関係は、人民共和国主席と民国総統の歴史的会談があったばかりの中台関係や、ひいては東アジアという文化文明圏の未来を考える上でも欠かせない。そして今から考えれば、その後の総統選挙・総選挙で民進党が歴史的な大勝を納めた台湾で、民主化が始まってほんの30年弱で、なぜ民主主義がかくも地に足のついたものとして成熟しているのか? その原点には民主化と同時にこうした台湾映画の勃興が進んでいて、なかでも『悲情城市』といういわば台湾の人たちにとっての「国民映画」が作られていたからこそなのかも知れない。

当時の日本のマスコミでは、台湾の議会で起こっていた暴力沙汰が揶揄されるようによく取り上げられていたが、それは40年以上の暗い歴史を直視し払拭するための民主化のエネルギーであり、その台湾の良識の重要な一翼を担い過去を見据え未来を照射していたのが、侯孝賢やエドワード・ヤンたちの世代の映画人でもあった。時代の躍動から産まれた映画運動が同時にあって、そこで『悲情城市』や、やはり台湾の現代史的アイデンティティの葛藤に深く切り込んだ点でも並び立つ傑作であるエドワード・ヤンの『クーリンチェ少年殺人事件』のような映画が作られ得たからこそ、たった30年弱で台湾は今のような健康な民主主義を持つことになったかも知れない。

台湾、中国、そして日本の、本来一体とも言えるほどの歴史的関わり

だが侯孝賢自身は、東京フィルメックス映画祭での質疑応答で、あえて政治史・台湾の当時の社会史には触れず、自分達作り手のプライベートを大きな歴史の流れに位置づける形で質問に応じていた。『悲情城市』では監督の自分と脚本の朱天文が外省人(本土から台湾に渡った家系)、同じく脚本の呉念真が本省人(代々台湾で暮して来た漢民族)だったことがこの映画の創作の原点にあったことを明かしつつ、一方で最新作『黒衣の刺客』では奈良の唐招提寺でのロケも希望していたことを例に挙げ、中国本土、台湾、日本の交流の歴史について、20世紀以降の直近の過去や現代の政治的対立の表層だけに着目してしまいがちな我々の狭量な意識を、さりげなく覆してくれてもいた。

そうやって先入観を取り除かないと、たとえば日本人が見た時、『悲情城市』は冒頭の玉音放送ばかりが、まずどうしても印象に刻み付けられてしまう。だがその玉音放送にしても、日本人と台湾人、台湾人のうちでも本省人と外省人では受け取り方がまったく異なるはずだ。そして映画の中では、日本人が皇居前や全国各地で頭をうなだれ、なかには土下座までして聴いていた放送が台湾でも流れていたとき、主人公たる林家の人々にとっては長男・文雄(陳松勇)の妾がお産の真っ最中で、天皇の声どころではない。

『悲情城市』や『クーリンチェ少年殺人事件』で、日本家屋が台湾人達の生活の場になっていることだとかに、我々はすぐ目が行ってしまう。あるいは父親を指す言葉が漢字では当て字で「多桑」と書き発音は「トーサン」、つまり「父さん」という日本語であることも、耳がいい観客なら聞き取るかも知れない。だがそれをただ、台湾が日本統治時代に「日本化」されたと言うだけで見るべきではないことを、侯は自身の日本文化への造詣の深さと敬意を語るかのような言葉のなかに、さりげなく示していた。

確かに、日本の観客は主人公である林一族の四男・文清(トニー・レオン)の自宅兼写真館に床の間があったり、文清の親友の寛栄(呉義芳)が「ヒロエ」、その妹の寛美(辛樹芬)が「ヒロミ」と呼ばれたり、その兄妹と小学校時代の恩師一家との交流が回想で映し出されることに過剰に反応してしまいがちだし、この映画を見て「だから台湾は親日なんだ(=中国は反日でけしからん)」的な誤解をしてしまう観客も、四半世紀前の日本公開時から決して少なくなかった。製作当時なら重要な政治性、今では歴史的に重要な意味を持ったこの映画は、だからこそ観客自身の政治的文脈や、こと日本人の場合はそもそもよく知らないが故のステレオタイプ的にひっぱられ、誤解されかねない。侯はそのことに自覚的だから、あえて政治や社会の文脈でこの映画を語ろうとはしなかった。

その替わりに侯が(一見『黒衣の刺客』の逸話として)語ったように、東アジアの大きな歴史のなかで見れば、確かに戦後まもなくの台湾人がなるほど床の間で生活していた一方で、日本の仏教文化は唐招提寺のような緻密な中国文明模倣から始まっていた。侯孝賢がその映画のスタイル、とくに画面構成で強い影響を受けている中国・南宋の山水画の完成者といえば、室町時代の日本の禅僧・雪舟等楊であり、それだけ雪舟が天才だった一方で、中世に中国から渡来した新しい仏教だった禅宗の文化は、山水水墨画や茶道など、今では日本の伝統文化の中枢、「和」風の典型のように思われがちだが、水墨画はすでに触れたように南宋文化の直接影響下にあったし、茶道も千利休の登場までは景徳鎮や龍泉など中国渡来の器が珍重されていた(その利休は自分の理念を体現する楽焼きを長次郎に日本で焼かせた一方で、朝鮮の民具だった器を「井戸茶碗」「三島茶碗」として珍重した)。今では「和風」に見えてしまう禅の建築様式(反り返った屋根や花灯窓)はもともと中国風建築の意匠で、禅宗様は唐様とも呼ばれる。いや禅宗の以前でも、平安以来の公式仏教だった密教(天台宗、真言宗)は最澄や空海が唐代の最新仏教を伝え天皇家の帰依を受けたものだったし、京都が今でも碁盤の目の町割りなのは、唐の長安を模した平安京以来の伝統だし、江戸時代でさえ「鎖国」と誤解されがちだが、武家の文化であるとかは一貫して中国風ブームの時代だった。だいたい明治維新まで、日本の公文書は基本、漢文で書かれていたし、漢籍もとくに論語ともなれば、寺子屋で庶民の子が習う基本教養だった。

『悲情城市』はサプライズに満ちあふれた映画である

十六世紀(日本では室町〜安土桃山時代)に漢民族が多数派になった台湾や、歴史的にずっと中華帝国の朝貢国つまりそことの正式な交易で潤って来た朝鮮半島や琉球も含め、東アジアは常にひとつの大きな文明圏を形成して来ており、日本の文化と文明の場合なら歴史記録で解明できる遥かに以前から、その交易路の重要な一部として育くまれて来たものだ。現代のような断絶状況は、近代の日本の対西洋開国と明治維新以降のことに過ぎない。質疑応答で自分達のプライベートな個人史の一方で、最新作の『黒衣の刺客』も持ち出すことで、侯孝賢はさりげなく、こうした歴史を忘れがちな我々の狭量なものの見方の「目から鱗」を落としてくれた。

『童年往時』『恋々風塵』『悲情城市』で一気に国際映画祭の(つまりは西洋の)注目を集めた当時、キャメラを極力動かさず、アップも少なく長廻しが多い侯孝賢のスタイルは小津安二郎の影響がしきりに(主に西洋の)批評家から口にされ、なにか静謐でおとなしい作風のように思われがちだった。しかし侯孝賢の映画というのは実のところ、むしろ驚きに満ち、「目から鱗」の瞬間があらゆる次元でそこら中に組み込まれた「新しい」映画だったし、とりわけ『悲情城市』の提示するものの見方の「新しさ」は、今でもまったく変わっていない。

侯の映画を「静か」「内省的」というように見てしまったのは、当時の(西洋が主流の)映画批評が、そのあまりもの新しさがよく分からなかっただけのようにも思えて来るほどに、改めて見直した『悲情城市』はサプライズに満ちあふれ、アクションやドラマもたっぷりの映画だ。ただその見せ方が当時あまりにも斬新だったし、今でも新鮮さが損なわれていないだけでなく、むしろ今でこそその「目から鱗」っぷりがよく見えて来るようにもなったのは、これほどの「新しい映画」がその後の世界映画でなかなか産まれて来ていないからかも知れない。

思い起こせば日本公開当時、『悲情城市』は侯孝賢と台湾ヌーヴェルヴァーグの評価を決定的にすると同時に、「よく分からない」という声も少なくなかったのは、今から思えばこの映画にショットの切り方からストーリー構成、全体の視点の置き方に至るまで、映画表現のあらゆるレベルで「目から鱗」が満ちあふれている斬新さに、当時の批評家だけでなく僕たち観客がついて行けなかった、侯が実験している東アジア文明圏的な系譜の映画話法が見えていなかったからでもあり、また台湾以外では日本でも海外でもあまりに無関心で、ここで起こっている歴史に無縁だったせいもあるかも知れない。

映画から学ぶ台湾現代史の複雑さ

台湾が1945年まで日本の植民地統治下にあって、戦後は中国本土とのあいだで分断国家常態にあるくらいしか知らなかったほとんどの日本人にとっては、1945年8月15日正午から始まる台湾近現代史における、日本の敗戦まで「日本臣民」扱いだったいわゆる台湾人・本省人と、中華民国・国民党政権と共に本土からやって来た外省人の違いすら、ほとんど意識されたことがなかった。本土=中華人民共和国と台湾(中華民国)の対立関係くらいにしか思いが至らないのでは、この映画で起こること/語られる歴史がまず目から鱗で驚かされるばかりだし、むしろこの映画が台湾史に興味を持つきっかけになったりした人も、決して少なくないだろう。

だが実を言えばその台湾でも、 1945年(台湾の公式の暦では「民国35年」)の「祖国復帰」以降の混沌は、この映画でほとんど初めて公に語られるものだった。『悲情城市』はヴェネチア映画祭金獅子賞を獲得して台湾映画の隆盛を世界に印象づけただけではなく、国民党独裁下では語り得なかった歴史を、その民主化の出発点において明晰に回顧した意味でこそ、台湾のいわば「国民映画」として位置づけられる映画だ。ただしここで大きな違いは、台湾の人たちにとってはそれまで誰も語らなかった(国民党独裁下で語れなかった)にせよ、誰もが自分の体験として知っている歴史だったことだ。『悲情城市』は初めてそれを台湾社会のおおやけの場に持ち出して意識化した作品であり、そこにはその歴史を直接に知ることがなくなる未来の世代に伝えて行く役割も明らかにあったのだろうと、今では考えられる。

だがそんな重要な政治的・歴史的な背景がある映画について、東京フィルメックスの質疑応答で、侯孝賢は自分と朱天文が外省人、呉念真が本省人で、それぞれの自伝的作品だった『童年往時』(侯)『童童の夏休み』(朱)『恋々風塵』(呉)のあと、個人史に留まらず歴史に興味が湧いたという創作の動機のみを、あえて語ったのである。さりげなく慎ましい言葉だったからこそ、その意味はもの凄く深い。

『悲情城市』は台湾が中華民国の一部となった最初の4年間を台湾人の視点で見せる映画だが、監督はその中でいわば悪役か敵役の外省人だったのだ。

だが同時に、逆に朱と侯が本土出身の家系であることを意識すると、この映画がそんな単純化された敵味方構図をとっていないことのディテールの繊細さにも意識が向く。そしてそこの気付く時、一見国民党政権を批判する構図のストーリーに見える『悲情城市』が、台湾が独裁下に抱え続けた強烈な分断の和解のためにこそ、歴史を直視する映画として構想されていることが明らかになる。鍵になるのはその視点だ。ストーリー的にも冒頭から、林家の人たちにとって玉音放送はさほど関心の対象ではないし、侯の選ぶキャメラ位置からの目線は、あくまでそうした庶民の視点と同じ高さに徹底している(ちなみに当時はやたらと小津と比較されたが、小津のキャメラが常にローアングルであるのに対し、『悲情城市』のキャメラはほとんど常に普通の目線の高さだ)。

ついこのあいだまで、日本の戦争で敵味方に分かれていた台湾人と中国人

台湾の近代化とアイデンティティの成立が日本の植民地統治と深く関わっていることは紛れもない事実だし、直接の戦場になることがなかったり、朝鮮半島の植民地支配よりは台湾統治が比較的うまく行ったこともあって、我々はつい「台湾は親日」だと思いたがり、この映画もそのフィルターで見てしまいがちだ。しかもそこへ玉音放送まで聴こえるし、主人公達が日本式の家に暮していたり、日本語に近い単語や名前も聴こえるのだから「親日」と思いたがるのも分からないではない。だが『悲情城市』は、そんな単純な映画ではない。

例えば、主人公・林一族の次男がルソン島戦線で行方不明になっていること、三男の林文良も日本軍の一員として上海に出征していて、その際の戦犯容疑、「売国奴」と密告される展開は、うっかりするとただ林家ら本省人が国民党と外省人の被害者であるだけのように思えてしまう。だが隠居した父(李天禄)が自分達は日本の官憲にも一目置かれ畏れられていた、決して日本に隷属して従っていたわけではないという抗議は、あえて林家の正面広間のフルショットで捉えられ、ほとんど声しか聴こえない。そのキャメラの距離からふと気付くのは、文良がたぶん本当に「売国奴」つまり戦犯だったことだ。

文良は上海から帰還したときには精神に異常を来していて入院し、快復し退院したばかりですぐに闇社会での裏切り行為に関わってしまう。密告された直接の理由はその対立組織の陰謀だったのであろうと同時に、密告された内容自体は恐らく事実なのだ。拷問された彼が再び正気を失って家に戻され、ほどなく政府が戦犯の訴追をやめることがラジオで報じられる時、我々は本省人と外省人の対立が、ただ元から住んでいたものと新たな支配者として威張るよそ者の衝突だけではないことに気付かされる。

ついこのあいだまで、日本と中国の戦争で敵同士として戦っていた(台湾人にとっては、戦わされていた)同士が、この狭い島で突然共存していくことになったのだ。次男も行方不明になったままなのはルソン島だ。折しも天皇が国賓として訪問しているフィリピンは、日本軍が人数的に最大の被害を出した戦場だったが、51万と言われる日本陸海軍の死者の倍以上、111万のフィリピン人が殺され、その多くは「日米の戦争に巻き込まれた」というより、たとえばそのルソン島では日本軍の虐殺事件が起こっているし、マニラ市街戦だけでも10万からの死者のほとんどは日本軍に殺されている。台湾人である林家の次男も51万が死んだ日本軍に数えられるだけではなく、フィリピン人を殺した側にも属し、しかも戦後の独立と同時に日本政府からも無視され(国籍を喪失し恩給や遺族年金の対象から外された)、見捨てられた死者だ。

こうした複雑な歴史とアイデンティティの問題を、『悲情城市』は分類的・明示的に示して「分からせよう」とはしない。たとえば戦後に支配者が変わったことも、中華民国の旗である青天白日旗のどちらが上なのかが分からなかったという笑い話で示唆される。林家の次男がルソン島から未帰還であることにしても、文良が帰国と同時に入院した時の長男の文雄の台詞(「おふくろが死んでから林家は悪運続きだ」)と、後に四男の文清(トニー・レオン、香港スターで台湾語や北京官話の台湾式発音が出来ないので聾唖という設定)が婚約者になる寛美に家族のことを筆談で伝えるなかで触れられるだけだし、戦場PTSDで心神耗弱常態だった文良が回復したことを示す説明シーンもなく、彼はいつのまにか退院していてすぐに闇社会の裏取引に関わり、兄の文雄に叱責されている。林家を中心に展開する映画のなかで、隠居した父や文雄、文明ら林一族の本家の側は「やくざ」とも言われる、日本の植民地支配下でも昔ながらのやり方で地域地域をとりまとめていた世界に生き、四男の文清は親友の寛栄らとともに新しい近代台湾を夢見て民主化運動に参加している、その違いを侯孝賢は分け隔てて描こうとはせず、そしてどちらの側も近代台湾の創世の苦難と葛藤のなかでひどい暴力に巻き込まれる。

斬新なアクション映画としての『悲情城市』

その暴力、アクションでも、侯孝賢はカットを細かく割ったり、殺陣の凝った振り付けといった普通の映画の見せ方をしない。キャメラはあくまでほとんど動かず、手持ちや移動ショットで強調したりする演出はない。だがだからこそ、『悲情城市』のアクションはもっと強烈だし斬新だ。

暴力は常にぶっきらぼうにストレートで、それが固定された構図に突然、画面外の横から、あるいは誰かの陰の死角から、飛び込んで来る。このいつ起こるか分からない直線的な暴力は、一方ではいわば「やくざ」の抗争があり、もう一方では人物たちは政府や軍、警察に弾圧されるのだが、映画はその両者に明確な区別さえあえてつけない。区別をつけるべきではないのは、戦後まもなく一気に本省人と外省人のあいだの緊張が高まる台湾の不穏な空気、そのなかで生きている人たちにとって、暴力はいつ我が身に降り掛かって来るか分からないと同時に、常に不意打ちだからだ。

とても象徴的で印象的なシーンがある。親友の寛栄と一緒に列車で移動中の文清が、口がきけないので、「お前は外省人か」と乱入して来た本省人(外省人支配に怒って叛乱を起こしている一団)に問いつめられる。危機一髪で寛栄が止めて入り、文清が八歳で木から落ちて聴力を失ったのだと説明して助かるのだが、まさに誰にいつ何が起こるか分からない、その暴力が官憲なのか民間なのかも区別がつかない状況だ。もっと怖いのは、本省人も外省人も民族的には同じ漢民族であることだ。だから身体的にも服装などでも、敵も味方も見分けがつかない。区別がつくのは言葉の発音、台湾語で喋っているか北京官話でも訛りがどうかだけだ。身内どうし以外では台湾人(本省人)も誰が同朋なのか分からない、同じことは外省人の側でも言えるのだろう、そんな敵味方の見分けすらつかない混乱があった台湾で、この時代の衝突はどれだけの疑心暗鬼と憎しみや恨みを残したことだろう?戒厳令が終わり民主化が始ったというのは、その古傷とどう向き合って和解するかの問題でもあった。

その過去の和解と未来のために作られた『悲情城市』が一見「分かりにくい」映画になることを侯が恐れず、物怖じもせず自分のやり方を貫き、政治的な大きな構図を分かり易い前提として提示することも拒絶しているのは、ただ近代台湾史のストーリーに自分の個性的なスタイルを当てはめた「アート映画」をただ目指したからではない。いやむしろ、ほとんど動かないキャメラの長廻しで凝視する基本以外では、『悲情城市』のスタイルはそれまでの『童年往時』『恋々風塵』という国際的に評判になった既存の作品とも実は大きく異なっている。シーンごとにかける時間の長さと持続性、アップかロングかの画面サイズの選択も、ショットのなかでの人物の動かし方も変化しているし、日本のバンド「SENSE」の手になる音楽の使い方も、それまでの侯作品にはなかったドラマチックなタイミングや盛り上がりが鮮烈だ。複数の物語軸が絡み合う構成も、これまでの侯の映画にはなかった語り口だ。

壮大な屏風絵のごとき歴史映画の、中心にあるのはあくまで「生活」


侯の映画のスタイルが南宋の山水画に強いインスピレーションを受けていることは先にも少し触れたが、『童年往時』と『恋々風塵』は絵画において時間の進行と移動を表現できる絵巻物が、横方向の長い尺で右から左へと展開するのと比較できる視覚構造を持っていたとするなら、『悲情城市』というそれこそ一見大歴史物語絵巻として扱えそうな題材で、侯はそのやり方をとっていない。

この映画は例えるなら、見るものの視線がまず縦方向に往復する掛け軸に近い視覚構造を持ち、その縦長画面の絵を複数並べたかのようにして物語と時間、政治と歴史が展開する。あるいは(これは中国絵画の影響下にあるとしても日本で発展した表現だが)屏風の、つまり大きな横方向の画面を一目で捉えると同時に、細かく見始めると縦方向に分割された一枚一枚を凝視して、その細部から全体の見え方の流れが複雑に再定義される視覚体験にも比較できるかも知れない。屏風絵は真っ平らに伸ばしてではなく、立体的に一曲一曲で角度がついた状態で見るもので、だが見る側の視点はその一曲内に留まるのではなく、二隻の屏風ならその左右も含めて行ったり来たりすることから細部と全体像が絡み合って行く、『悲情城市』を見る体験はこれに近いかも知れない。

屏風という喩えにもうひとつ意味があるとしたら、それが生活のなかの調度として使われる絵画だからでもあろう。『悲情城市』は大きな歴史の流れを網羅した映画でありながら、その視点が置かれるのはあくまで生活であり、そのキャメラの置き方、演出の視点は、ささやかな生活のそのものをテーマにした(監督や脚本家の私的な体験に基づいてもいた)『童年往時』『恋々風塵』以上にはっきりしていて、暴力のアクションはその生活のフレーミングに唐突に侵入して来るものとして観客を驚かす。だがフレーミングそれ自体つまり生活、そこに循環し続ける生と死、それは玉音放送をバックにお産でてんてこまいの林家を映し出すファーストシーンからはっきりしているし、停電していた電灯がお産の途中でつくことに文雄が気付くという気の効いたディテールも、その生活感をはっきり刻印していた。

そして映画は、このファーストシーンと同じ林家の広間の、まったく同じ琥珀色と、色ガラスの赤と緑の光と黒々とした木の調度のなかに、ラストシーンを迎える。次男は結局ルソン島の戦線から帰らぬまま、三男の文良は正気を失ったまま、長男の文雄はやくざの抗争で背中から撃たれ命を落とし、四男の文清は政府側に拉致されたまま行方不明、この家と一族に残されたのは隠居した父と女たち、子どもたちだけだ。それでも彼らは生きている。女たちは賑やかに食事を準備し、家族は食事を始める。食べ続けること、生き続けること、そして国民党政府は本土を追われ台湾に遷移し、40年の独裁と戒厳令を経て、台湾という国が本当に産まれることになる。
                                    藤原敏史

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画像: 映画「悲情城市」予告編 youtu.be

映画「悲情城市」予告編

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