「ままならなさ」を負わされている

 マルクスの学位論文に「デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異」というものがある。物質の単位である原子が、合理的な法則に従って運動しているという説に疑問をさしはさんだデモクリトスとエピクロスについて論じたものだ。
 
 あの『資本論』のマルクスが、どうしてギリシア哲学の、それも原子論などに興味を示したのかと思ってしまう。私の考えでは、このマルクスの処女論文こそ、その後のマルクス思想の根にあたるものなのだ。
 
 一言でいってしまうと、人間存在からはじめて、この世界にあるものはすべて、ある種のずれというか、偶有性というか、不確定性というか、要するに「ままならなさ」を負わされているという思想。その代表が、原子の運動なので、原子というのは、まったくわけのわからない運動をするものなのだという考えを、ギリシアのエピクロスから引き出してきた。
 
 マルクスは、この考えを後に『資本論』において商品の動きを分析する際の基本モチーフとしている。そのことについては措いておいて、このエピクロス経由のマルクスの原子論こそ、古典力学以後の量子力学を先取りするものではないかと、私は考えている。それどころか、原子核内部の素粒子の運動の不確定性をも予告するものではないか、と。
 
 そんなにマルクスって、凄いのという向きもあるかもしれないが、やはり、この世界の成り立ちの本質をつかむことにかけては、ピカイチではないだろうか。マルクスはみずからの原子論を考えていくうちに、100年後200年後に未曾有の事態がやってこないとはかぎらない、それは原子の運動の偏奇性に由来するものにちがいないと確信した。それが、原子爆弾ではないかというのが、私の直観。
 
 この点については、拙著『希望のエートス』で詳しく書いているので、そちらに譲ることにして、この間、長崎浩氏にお会いしたときに、フランスのマルクシアンであるルフェーブルが、「デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異」をつかって偶有性を問題にしているというお話をうかがった。
 
 そういえば、80年代に吉本隆明が、このルフェーブルの「重層的決定」という考えを批判して「重層的非決定」という考えを提示していた。そのときには、ルフェーブルは、結局ポストモダン・マルクスに過ぎないと受け取ったのだった。
 
 そのルフェーブルが、「デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異」というので、あらためて読み返してみた。結果、私なんかの直観とはまったく無縁で、要するに、原子の運動の偶有性は、革命的行動の偶有的で不確定な広がりを示唆するものだというようなことだった。それをルフェーブルは「重層的決定」といっているのだが、要するに、ポストモダン思想特有のなんでもあり的なものなのだ。
 
 問題は、原子の運動が絶えざる「ずれ」としてあり、この「ずれ」はいつ何時どのように未曾有な事態を招かないともかぎらない、そのことを直視することによってしか革命は起こらないというところにある。つまり、マルクスは原子爆弾とか原子力といったものが必ず、未曾有なものとして現れてきて、これを直視することによってしか、未来の革命は起こりえないということを予言していた。
 
 「ずれ」とか「偏奇」とか「偶有性」とか「不確定性」というのは、原子が負わされたものであるだけでなく、人間存在がさまざまな関係を生きていくなかで、いやおうなく負わされたものであると考えるならば、マルクスの予言も私の直観も、あながち的外れとはいえないだろう。

神山睦美 プロフィール

1947年岩手県生まれ。東京大学教養学科卒。
文芸評論家。2011年『小林秀雄の昭和』(思潮社)で、第二回鮎川信夫賞受賞。
その他の著書に、『夏目漱石論序説』(国文社)『吉本隆明論考』(思潮社)『家族という経験』(思潮社)『クリティカル・メモリ』(砂子屋書房)『思考を鍛える論文入門』(ちくま新書)『読む力・考える力のレッスン』(東京書籍)『二十一世紀の戦争』(思潮社)『希望のエートス 3 ・11以後』(思潮社)『サクリファイス』(響文社)など多数。

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