『映画と小説の素敵な関係』第四回 
『リスボンに誘われて』後編


『リスボンに誘われて』を巡る「映画」と「小説」――これを比較してみると、根幹にある大筋は変わっていません。ですが、「物語り」、つまり(少し解りにくい表現かも知れませんが)「何を語っている話しであるか」は、実は違っています。
それがどのように違うのかというと・・・まだご覧になられていない方、或いは映画版を観て原作の小説は読んでいないが興味はあるという方には、完全にネタバレさせてしまうことになるので、その点はここでは伏せておきます。
それを踏まえた上で、相違点からこの作品における「脚色」の素敵なところをお話ししてゆきたいと思います。

画像1: http://www.bunkamura.co.jp/cinema/lineup/14_lisbon.html

http://www.bunkamura.co.jp/cinema/lineup/14_lisbon.html

まず、冒頭、グレゴリウスが橋の上で赤いコートを着た若い謎のポルトガル女性と出会う。これは、映画も小説も同じなのですが、ディティールは違います。
映画では欄干の上に立つ女性をグレゴリウスが必死に救う描写となっていますが、小説では手紙を読んでいて、その手紙を女性が川に流し、何かを叫ぶ姿を見て自殺するものと思ったグレゴリウスが女性を止め、額にフェルトペンで電話番号を書かれるという描写になっています。その後、共にギムナジウムへ行った(誘いが逆になっています)際に、グレゴリウスは女性に尋ねます。「あなたの母国語は何ですか?」と。すると女性は答えます。
「ポルトゥゲーシュ」(=ポルトガル語)と。
 グレゴリウスはこの、謎の女性が発した「ポルトゥゲーシュ」という言葉の響き、その“柔らかな官能性”に惹きつけられてしまうのです。
お解りになるかと思いますが、小説をそのまま映像にしたら、とても伝わりにくい描写になってしまうと思います。ですので、映画では欄干に立った女性をグレゴリウスが必死に抱き締め、救うという劇的なアクションに置き換えられています。しかし、当然、これでは意味合いが大きく変わってしまいます。映画と小説とでは、この女性の存在の位置づけじたいが大きく変わっているのです。

画像: 『映画と小説の素敵な関係』第四回 『リスボンに誘われて』後編

その後、ギムナジウムの教室において、映画では女性が教室に雨に濡れた赤いコートを残して去ってゆき、グレゴリウスはそのポケットにプラドの『言葉の金細工師』を発見します。そこから赤いコートは一つのメタファーとして物語りに定着しますが、原作では赤いコートを残して行きません。つまりは、プラドの本も。女性がグレゴリウスに残してゆくのは、「ポルトゥゲーシュ」という言葉の響きだけなのです。
この冒頭のシークエンスだけでも、如何に優れた脚色が施されているかが解ります。とても映画的な構成になっています。そして、映画と小説ではグレゴリウスの「動機」が別物であり、それによって「物語り」がまったく違うものであるということが解るのです。
「ポルトゥゲーシュ」――その言葉が放った官能性。原作では、この“柔らかな官能性”が重要なファクターとなっています。
50代後半の初老の孤独な学者グレゴリウスが感じる、様々な官能性。そして、「愛」を否定したアマデウ・デ・プラドが感じていた様々な官能性。ここで重要なのは、プラドの「姿」として映画で描かれているのは、本に載っていた写真のままの30過ぎの姿ですが、原作ではあくまでもそれは肖像に過ぎず、物語りの中心の「姿」となるのは50過ぎであるということです。
「言葉=哲学」を愛し、その世界で生きようとして来たグレゴリウスとプラド。「死」を意識し始めた年齢にさしかかったグレゴリウスと、サラザール政権(1933-1974のポルトガルにおける独裁政治)下において医師として、或いは人として、常に「死」と向き合いながら生きたプラドの、2人の男が妙齢を数えた時に覚えた「官能性」。そして、この2人の男を巡る女性たちの“柔らかな官能性”が描かれているのです。

画像: http://www.cinemawith-alc.com/2014/09/Night-Train-to-Lisbon.html

http://www.cinemawith-alc.com/2014/09/Night-Train-to-Lisbon.html

映画では、原作の持つこのファクターは鳴りをひそめ、「愛」の物語りとして再構築されています。そこで考えられるのは、まずヨーロッパの映画や文学では「官能性=〈性〉」というものがごく自然なものとして描かれている、つまりはそういった精神性が醸造されていますが、日本やアジア圏を見ても解るとおり、〈性〉というものを「禁忌的」或いは「秘めごと(或いは隠しごと)」のように捉える精神性の国が多くあるということ、そして映像で表現した場合に、小説ではまったくいやらしさもなくごく自然に描かれているリビドーが、よもすればグロテスクなものに捉えられ、根幹のテーマをかえってぼやけさせてしまうかも知れないという側面があることではないかと思います。
そういった点において、グレゴリウスを取り巻く官能性を描出することなく、50過ぎのプラドの20代前半のエステファニアとの官能的な関係を、30過ぎのプラドとエステファニアの若きふたりの劇的な恋愛ドラマとして昇華させたことは、より多くの共感を呼んだに違いなく、正解だと思えるのです。
映画と小説を比べた場合、この点が一番の大きな相違点ともいえますが、それによってこの作品の命題が一切損なわれていないのはとても素敵なことです。「物語り」、つまりはグレゴリウスを通して描かれているものの根幹は実は変わっているのですが、映画と小説を比べた時に、人によってはそう違っているように思われないかも知れません。それは、この小説の本質となっている命題をきちんと抽出した上で再構築することが出来ているからです。
私の考える、「脚色」という作業における最も重要な部分が、見事なかたちでなされているのです。

「我々が、我々のなかにあるものの、ほんの一部分を生きることしかできないのなら、残りはどうなるのだろう?」
 
これは劇中に出て来るアマデウ・デ・プラドの言葉です。「自己存在とは何か?」「生きるとは何か?」――「自分」を巡る「人生」という名の旅。それこそが、この作品の最も重要なテーマであり、原作のファンの期待を裏切らないように映画として成立しています。

画像2: http://www.bunkamura.co.jp/cinema/lineup/14_lisbon.html

http://www.bunkamura.co.jp/cinema/lineup/14_lisbon.html

この『リスボンに誘われて』という作品では、映画と小説とでラストシーンが大きく異なります。もちろん、どのように違うかはここでは書きません。それは、先に書いたように、大筋は同じでも、「物語り」が違うからです。
どちらのラストシーンも納得のラストシーンなのですが、映画のラストシーンは、最初のほうで触れた、リスボンという町の概念、「寄る辺なき者が辿り着く地」という概念に落とし込まれています。

それによって、この映画はリスボン好きの私にとってはたまらない、紛れもない「リスボンの映画」なのです。                               

                                     江面貴亮

映画『リスボンに誘われて』予告篇

youtu.be

出演:ジェレミー・アイアンズ、メラニー・ロラン、ジャック・ヒューストン、ブルーノ­・ガンツ、シャーロット・ランプリング

監督:ビレ・アウグスト   
原作:パスカル・メルシエ「リスボンへの夜行列車」(早川書房刊)

●発売・レンタル開始日:2015/4/2
●価格:3800円
●発売元・販売元:キノフィルムズ|ポニーキャニオン
●原題:NIGHT TRAIN TO LISBON
●ジャンル:ドラマ|ミステリー・サスペンス・犯罪
●時間:111+17分
●製作年・製作国:2001年|独・スイス・ポルトガル

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