『映画と小説の素敵な関係』第三回
『リスボンに誘われて』中編

『リスボンに誘われて』――この作品に触れたのは、映画を観たのが先で、その後に小説を読んだという順番でした。
私がこの映画を観て、深い感銘を受けてすぐに原作を読みたいと思った衝動は、先に書いたとおり、リスボンという町への思いもさることながら、作品中で描かれていたアマデウ・デ・プラドの哲学をもっと深く知りたいと思ったからでした。
そう。まるで主人公グレゴリウスがプラドの書いた『言葉の金細工師』と出会い、リスボンの町へ向かい、その哲学の深淵に触れたいという衝動に駈られたのと同じように、私は原作本を読まずにはいられなかったのです。

画像: 『映画と小説の素敵な関係』第三回 『リスボンに誘われて』中編

「映画」と「小説」――いうまでもなく、これは別個の〈メディア〉です。解りやすくいうと、「小説」というものは自分のペースで読み進むことが出来るし、もしも一度読んで理解し切れていなかったと思った時にはページを戻って読み返すことも出来る。つまりは、「能動的」に接する〈メディア〉といえます。しかし「映画」の場合は、最初から最後まで、作られた一定の時間の中で進みます。従って、「受動的」に接する〈メディア〉といえます。
この違いこそが「脚色」という作業の最も肝心な部分であり、つまりは能動的な「想像力」にすべてを任せているものを、視覚と聴覚に訴えかけて具現化する為の装置、即ち映画的に置き換える作業が必要となって来るわけです。
つまりは、原作となっている小説の主題を抽出し、それを表現している物語り、登場人物たちとを、足し算と引き算を繰り返して、小説が含む膨大な情報を圧縮して再構築してゆく作業が、「脚色」と呼ばれるものなのです。
この作品、『リスボンに誘われて』でいうと、非常に的確な仕事がなされている作品であると思います。

私は原作を読んだ時に、「よくこんなにも映像化しにくい作品を見事に簡潔に映画化したものだ」と感心しました。
この作品の脚本を担当したのはグレッグ・ラターとウルリヒ・ヘルマンという2人の脚本家です。私は良い仕事をしている作り手で自分の知らない名前だと調べるようにしているのですが、ネットで調べた限りでいうと、グレッグ・ラターはビレ・アウグストの前作『マンデラの名もなき看守』(私は未見)でも脚本を担当した人で、ウルリヒ・ヘルマンは『白バラの祈り ゾフィー・ジョル、最後の日々』で編集に携わっている人でした。ウルリッヒ・ヘルマンは他に脚本作品があるのか解りませんが、編集技師であることを知り、私は納得のいくものを覚えました。

何故、私がこの小説を映像化(=視覚化)しにくいと思ったかというと、まず第一に、先に書いたように「哲学小説」であり、それ故に非常に情報量が多いこと。そして主人公グレゴリウスが古典文献学者であるという点です。ラテン語・ギリシア語・ヘブライ語に精通し、その言葉の響きや流れに魅了されている男。映像としては非常に描きにくいものです。いうまでもなく、この2つのファクターはとても重要であり、小説ではいずれも仔細に綴られている部分なので、この本の面白味となっているのです。
しかし、映画では見事なまでに大胆に引き算をして、その多くを削り落とした上で、本質を損なうことなく再構築しているのです。それによって「哲学」はほどよく簡潔に語られるようになっており、グレゴリウスはそのキャラクター像じたいがあっさりとしています。映画でグレゴリウスを演じているのは名優ジェレミー・アイアインズですが、実は私が原作を読んでイメージしたグレゴリウスは、まったく違う、ジェレミー・アイアンズには似ても似つかぬキャラクターでした。ですが、映画を観た段階では、こんなにもこの映画の主人公にマッチした配役はないだろうと思わせられるほどにマッチしていたのです。
ここに、この作品の巧さ、そして成功があるのです。

500ページ近く(日本語翻訳版においてですが)ある「哲学小説」を、僅か2時間弱の、世界中の多くの観客に受け入れられるであろう、緊張感のある人間ドラマに仕立て上げられている、そこにはもちろん、多くの計算が施されているのです。
                                     

                                       江面貴亮

映画『リスボンに誘われて』予告篇

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