こんな記事を書いてきたシリーズ  「ウッドストックがやってくる」

画像: こんな記事を書いてきたシリーズ  「ウッドストックがやってくる」

そういえば、まだなんでこの連載のタイトルが「カレイドスコープ」か説明していなかったね。
実は私は日本万華鏡博物館の学芸員。万華鏡を英語でカレイドスコープといいます。万華鏡のように色々な映像を見せてくれる映画を万華鏡をのぞくみたいにカラフルにいろんな視点で語っていこう、というのがタイトルの由来です。
ついでに、万華鏡が出てくる映画もフィーチャーしておこうということで、この作品。2011年に公開された作品です。
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ウッドストックがやってくる

 10年くらい前になるかな、ウッドストックのコンサートがここで開かれたという町に行ったことがある。ニューヨーク州のキャッツキルというところで、マンハッタンから電車で40分くらいのところ、かな。駅に降りたらなぁぁぁんにもなくって、目的地(世界最大の万華鏡)までどうやって行けばいいか、親子三人途方に暮れたっけ。で、駅に合った電話でタクシーを呼んで駅から30分くらいもうちょっとかな、いったところにその町はあったんですね。
 
 正確には、町はなくて、世界最大の万華鏡のある元・牧場の建物があっただけなんですが。つまり、そんな、なにもないところ、なんですよ。ウッドストックのコンサートをやったところって。で、帰りに駅まで送ってくれた人に、「この辺でウッドストックのコンサートがあったんですってね。あなたも行きましたか? うらやましいですね」なんて言ったわけですよ。そうしたら「いや、私は当時警官で、たいへんでしたわ」。町の人たちにはコンサートもそこに集まってきた人も、ヨソモノでしかなかったんだなと感じまして、私たちはシュンとなってしまったわけです。

 が、なんでまたそんな保守的でなんにもないところで、ウッドストックのコンサートが開かれることになったのか、そのときはどんなだったのか、というのが『ウッドストックがやってくる』という映画です。

 昨年のカンヌで見て二回目。もともと舞台裏ものが大好きなので、とても楽しかったんですが、そこに親離れ・子離れのモチーフとか、ユダヤ系移民の世代間ギャップとか、町おこししなくちゃと焦るけれどちっとも歩み寄らない町の人たちとか、ベトナム戦争帰還兵のPTSDとか、野外音楽フェスにむらがる資本家に対するクリエイターのかまえとか、当時の前衛演劇グループの芝居とか、いろいろ盛り込んであって、それがまたおもしろい。この時代のサイケデリックなビジュアル・アートを意識したからだと思うんだけど、LSDでラリっているときの主人公の主観シーンが万華鏡っぽかったりするのも、万華鏡博物館学芸員としては見逃せません。

 ウッドストックのコンサートについての映画なのに、演奏シーンが出てこないのも、アン・リー監督は確信犯。ポスターのコピーに「時代は舞台裏で作られる」とあるんだけど、まさに「ウッドストックのコンサート」という「時代・世代」を作った「舞台裏にいた人たち」を、「舞台裏で起こっていたこと」を見せる映画なのね。コンサートで演奏したアーティストやその歌、ではなくて。

 この野外ロック・フェスを作り上げた人はカリスマチックな人なんだけど、この町にコンサートを誘致した主人公は、なんともさえない青年なの。その彼が変わっていくのが映画のメイン・プロット、成長物語なんだな。
 
 で、この主人公には見ている人が共感できる、というより、自分のほうがましかもしれないって思うわけ。そんな、ルーザーと自負してしまった青年の新規巻き直しと出発を描いてくれる。とぉぉぉくの方から、音楽が聞こえてきて、彼は舞台の方へ向かうのだけれどなかなかたどりつけない。それでもいいの。そこにいることがウッドストックのコンサートだから。そういう感じ。自分がそこにいる、一員である、参加しているって感じ。それが、舞台とかイベントとか、コンサートとか、何かを作る、ってことなんだと思う。そして、その経験は、人を変え得るんだよね。自分を変えられるんだよね。だから、好きなの舞台裏って。

 久しぶりに「楽しい映画を見たなぁ」って思わせてくれた作品でした。

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