雪が降った夜の明けた、晴れた朝に映える二本の松。紙と墨つまり白と黒と、金のふた通りの使い方のみのシンプルさで、自然の神々しさの一瞬を切り取った円山応挙の「写生」の傑作中の傑作は、三井記念美術館で毎年お正月の時期に展示される。同じく松を描いた国宝の屏風では長谷川等伯の「松林図屏風」も東京国立博物館の正月展示の定番(1月2日から)で、東京の年始といえば毎年このふたつの国宝の松を門松代りに見られる。

*本文の文責は藤原個人・美術館側の見解ではありません。
*写真は特別な許可を得て取材時に撮影。展覧会での撮影はできません。

またやはり国宝に指定された三井記念美術館の所蔵品、つまりかつて三井家が熱心に蒐集した美術工芸品の、その中核をなす茶道具の中でも屈指の名品、安土桃山時代の志野焼の名碗・銘「卯花墻(うのはながき)」も、その志野独特の豊かな質感の白釉が雪景色にも見立てられる風情もあってか、この時期に展示されることが多い。

画像: 志野茶碗 銘「卯花墻」 安土桃山時代 16〜17世紀 旧・江戸冬木家伝来 明治20年代半ばより室町三井家に 今年は茶室「如庵」(織田有楽斎 作)の再現コーナーに展示。「如庵」は有楽斎が隠居先だった京都・建仁寺の塔頭、正伝院に建てたものだが、明治維新で正伝院が廃寺となり、後に三井家に買い取られて東京、続いて大磯に移築された。戦後の財閥解体で名古屋鉄道の所有になり、現在は犬山市の名鉄犬山ホテルに。国宝。 背後の軸は、後水尾上皇宸翰の和歌懐紙「深山鹿」 江戸時代18世紀 個人旧蔵

志野茶碗 銘「卯花墻」 安土桃山時代 16〜17世紀 旧・江戸冬木家伝来 明治20年代半ばより室町三井家に
今年は茶室「如庵」(織田有楽斎 作)の再現コーナーに展示。「如庵」は有楽斎が隠居先だった京都・建仁寺の塔頭、正伝院に建てたものだが、明治維新で正伝院が廃寺となり、後に三井家に買い取られて東京、続いて大磯に移築された。戦後の財閥解体で名古屋鉄道の所有になり、現在は犬山市の名鉄犬山ホテルに。国宝。
背後の軸は、後水尾上皇宸翰の和歌懐紙「深山鹿」 江戸時代18世紀 個人旧蔵

円山応挙の「雪松図屏風」をとりあえずは門松代りのオメデタ縁起ものとして、あるいは国宝だから的なスノビズムで見に行くのでも、ぜんぜん構わない。いったん展示室に入って細長い部屋のかなたに「雪松図屏風」が見える時、ただ自然の一瞬をありのままに写し取ろうとしただけの絵なのに、その創作姿勢の純粋さそれ自体の奇跡的な美しさと、そこから産まれるイメージの豊饒さに、そんな先入観なぞどうでもよくなるからだ。

画像: 縦長の展示室のかなたに「雪松図屏風」。この屏風を飾ることを前提に設計されたという

縦長の展示室のかなたに「雪松図屏風」。この屏風を飾ることを前提に設計されたという

考えてみたら不思議なことではある。描かれている題材自体は、ありふれたとさえ言っていい、雪の後の朝ならどこにでもあり得る光景だ。

確かに松は常緑樹で生命力を象徴し、東アジア文明圏では無病息災と長寿に通じる吉祥とされ、近世の日本では寺院の書院や方丈、それに城郭や武家屋敷などの襖絵に好んで用いられた画題だが、そうした典型の狩野派の松(二条城二の丸御殿、西本願寺黒書院など)は平面的に極度に様式化され、日本で見るような現実の松からはかけ離れた表現が多い。

それに対し応挙の松は、その豊かな立体感のリアルさも含めて、姿形自体はいわば普通の松の存在、ただそれだけ、である。特に右隻の「雄松」は、取り立てて凝った手入れもされていない、自然の山林に生えていそうな松の木で、庭師が長年丹精を込めた凝った枝ぶりでもなんでもない。

日本の風景絵画は鎌倉・室町時代に中国・宋代の山水画が流行して以来、主に中国の、日本の日常から縁遠いエキゾチックな風光明媚で、漢詩に詠まれたような絶景や奇観が、狩野派を中心に定番の題材だった。やまと絵で日本の風景の中に松を描くのでも、駿河(現・静岡県)の、海を前景に富士山を背景とした三保の松原と言った名勝ならともかく(海岸に松であれば「浜松図」はやまと絵の定番の画題で、例えば現存はしないが江戸城本丸の松の大廊下の障壁画は長大な浜松図だった)、応挙が切り取ったのは雪深いこと以外はどこにもありそうな自然の、一瞬の限定された光景で、どこかの「絶景」どころか周囲の空間の広がりを排除した、写真で言えば望遠レンズ的な切り取り方からすれば、いわゆる「風景画」の常識・通例すら逸脱している。

江戸時代中期に西洋「近代芸術」を100年先取りしていた京都の町人文化

こうしたさりげない、世界をありのままに写し取ろうとする絵画表現は、西洋ならば例えばフランス絵画では19世紀後半の印象派の登場を待たねばならず、その背景には産業革命によるブルジョワ階級の勃興があった。産業革命以前にヨーロッパ絵画を支えたのは、主に王侯貴族の需要だ。

日本でも、例えば山水画ならば禅宗の文化の一部として鎌倉〜室町時代に流行が始まり、中国的な意味づけ・価値づけの含意も強く、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて狩野派を中心に武家の「公式絵画」として発展したし、平安時代からの流れを引き継ぐやまと絵ならば、朝廷・公家と深く結びついて来た。製作にはそれだけの権力と結びついた資金力が必要だったからでもある。例えば豪勢な金屏風は「雪松図」のような六曲二隻の大きなものとなると、安土桃山時代や江戸時代初期の狩野派なら、最低でも十万石規模の大名でなければ描かせられなかったほどだ。

「雪松図」のような新しい、より抑制の洗練と独創性を研ぎ澄ませながら遊び心もある美学を支えたのは、江戸時代に平和が続き商業・産業がめざましく発展する中で成長した町人階級の豪商たちだ。近世日本でもっとも成功した商人のひとつで、明治以降は三井財閥として日本経済の近代化を牽引した三井家は、そんな豪商の代表格である。「雪松図」の描かれた経緯の記録は残っていないものの、三井家の特注と考えてまず間違いないだろう。江戸時代中期には三井家などの豪商が大名家を平然としのぐほどの財力を持つに至っていたことも含め、円山応挙は西洋でこの100年近く後に近代絵画への流れとして起こったことを、すでに先取りしていたとも言える。

肝心の表現面でも、「雪松図」は画期的だ。

画像: 円山応挙「雪松図屏風」江戸時代18世紀 北三井家旧蔵 国宝

円山応挙「雪松図屏風」江戸時代18世紀 北三井家旧蔵 国宝

狩野派のような金屏風は、大名の権力と財力の象徴だったり、政治的な交渉の贈答品としても活用され、だから金だけでなく群青や緑青などの高価な顔料も多用されて豪華に仕上げられるものだった。ところが「雪松図」は、発想がまったく違う。金以外は紙の白と墨の黒だけで描かれ、枝に積もった雪の白さと早暁の日光を浴びた松の幹の明るさは、塗り残された紙の白の純粋さで表現されている。この白も、狩野派や土佐派、住吉派などの濃彩の紺碧障壁画や屏風なら、貝の内側を砕いて粉にした胡粉を塗ったところだろう。胡粉も高価で、ふんだんに使うことに注文主の威光・財力と権勢を示す意味がやはりあった。

紙をそのまま見せることで純粋な白を表現する応挙のテクニックでは、描き直しは一切できず、下書きもまず無理だろう。つまり一筆たりとも間違いは許されず、描きながら考えを変える試行錯誤もなく、一筆一筆が恐るべき精緻さで、確信を持って一気に描かれたはずだし、しかもその筆の運びには勢いがある。

金を使っていることにも、豪華さの狙いはほとんど感じさせない。応挙は反射率の低い金泥を背景に塗り、金の輝きそのままの金箔を細かく刻んだ金砂子を前景に蒔くことで、雪に反射した日光で輝く朝靄と、後景の朝日に染まった空や雲を描き分ける。注文主の意向が金を使った贅沢な屏風だったとしても、結果としてその金の使い方は、絵画表現として完全に昇華されている。

「まず距離を置いて見る」を前提とした、応挙の新たな美学の視覚トリック

三井記念美術館のメインの第4展示室は、もっとも奥のガラスケースにこの「雪松図」を展示するために、意図的に縦長に設計されているという。最初に展示室の入り口から、離れた距離でこの屏風が目に入ると、誰もがまず気づくのは空間の奥行きと自然な立体感、そこから湧き立つ松の存在感だ。

当時すでに八代将軍・徳川吉宗の享保の改革で蘭学、つまりオランダ経由の西洋の文献が解禁されていたので、西洋絵画の遠近法や陰影法の効果も主に書籍の銅版画挿絵を通して伝わり、やがて江戸時代後期の浮世絵版画黄金時代に遠近法の独創的な応用が逆に西洋絵画を刺激さえすることになるし、やはり吉宗が招聘した清朝の画家・沈南蘋の細密描写リアリズムが、リアルタイムに江戸中期の日本美術に多大な影響を与えていた。

画像: 沈南蘋 三井家の北家が所有した「花鳥動物図」全11幅のうち2幅、「柳下雄鶏」(右)と「白鸚鵡」(左)、中国・清時代 乾隆15(1750)年 明治天皇の皇后・美子妃のための茶会で掛けられた2枚・後述

沈南蘋 三井家の北家が所有した「花鳥動物図」全11幅のうち2幅、「柳下雄鶏」(右)と「白鸚鵡」(左)、中国・清時代 乾隆15(1750)年 明治天皇の皇后・美子妃のための茶会で掛けられた2枚・後述

「雪松図」の立体感にも、そうした影響関係を指摘するのは簡単だ。左隻の「雌松」なら画面の奥に伸びる枝と手前に迫って来る枝の複雑な入り組み方の緻密な写実性と、松葉に積もった雪のこんもりした丸みも印象的だ。

だがこの緻密に見えるリアリズムの詳細を、沈南蘋のような超細密描写を期待して間近で見ようと(昨今は単眼鏡を携行して肉眼では見えない細部まで熱心に見る人も少なくない)近づくと、とたんに応挙の「写生」のマジックは雲散霧消してしまう。立体的に見えたものは途端にフラットな、白い紙の上にリズミカルかつ規則的に並んだ墨の線の羅列になってしまうのだ。

応挙が得意にしていた墨の濃淡の無限のグラデーションも、「雪松図」ではほとんど使われていない。大部分が一定の濃さの黒墨で描かれ、一度に擦った墨で一気に描かれたと思われる。真っ白な雪の周囲は線が少なく、枝の下側になるほど一本一本の濃さが一定の墨の線の数を増やすことで、陰影と立体感に見えていたのだ。あとは一部に薄墨がところどころアクセント的に使われているだけで、しかも薄墨は薄墨でこちらの濃さもやはり一定だ。

展示室の設計コンセプトにも反映されているように、「雪松図」はまず遠くから、距離を置いて見ることを前提に描かれているのだ。このことから2点、この傑作が描かれた背景と応挙のコンセプトについて気づかされることがある。

画像: 縦長の展示空間の向こうに「雪松図」を見る

縦長の展示空間の向こうに「雪松図」を見る

第一に、この陰影と立体感の表現方法は西洋の銅版画によく似てはいないか? 銅版画は一定のインクの濃さでしか印刷ができないので、虫めがねや拡大鏡で見ると、陰影などのモノクロームのグラデーションは線の太さと、細かな線の密度によって表現されている。「雪松図」はいわば、そんな銅版画の陰影表現の手法を極端に拡大したような描かれ方になっていて、一定の距離から見ることで初めて雪を頂いた松の枝が立体的に浮かび上がる計算なのだ。

当時は宗教以外の蘭学文献は解禁されていて、伊藤若冲には構図やモチーフの類似性から書籍の銅版画挿絵を参照した可能性が指摘されている作品がいくつかある。応挙と若冲はほぼ同時代に同じ京都で活動していたので、応挙もまたそうした西洋の銅版画を見ていてもなんの不思議もない。それにしてもこんな緻密な計算が必要なことを、筆の勢いと一定の墨の濃さから推察するに、応挙は一気呵成に描いたはずだ。筆を取った時には頭の中であらかじめ、イメージどころか複雑な枝の前後まで含めた配置と、その明暗の計算まですべて出来上がっていたに違いない。

第二に、「雪松図」がこれだけ離れて見られることを前提に描かれているということは、この絵はやはり武家や公家の屋敷や、彼らが寄進した寺院に置かれるよう描かれたのではなく、確かに町人階級のためにこそ描かれた屏風だったはずだ。

大きな武家屋敷や、寺院の書院や方丈・客殿ならば、たいがいは南側を正面に、庭などの開かれた空間に長い縁側を設けて、光をふんだんに取り込める横方向の広がりで屋内空間が構成される。そこに屏風を飾るのならばまず庭に向けてだろうし、調度品としては庭側に開かれた空間と屋内を仕切るのにも使われたかも知れない。いずれにせよ、見る者は横から屏風の置かれた室内に入って座るなどするわけで、全体を見るには鑑賞距離が近すぎて、むしろ部分・細部に注目することになったはずだ。現に屏風絵では四季を描き込む「四季花鳥図」や「四季山水図」など異時同図法もよく用いられるし、「洛中洛外図屏風」のように緻密な描写を間近に見ることが主眼で、画面構成上絵の全体を見ることがそこまでは重視されていないケースや、面ごとに別の絵が描かれた屏風も多い。狩野永徳が得意とした大画様式では獅子や大木が画面いっぱいに描かれているが、これも細部に至る描写の細かさから、近くで見てその迫力に圧倒されつつ微細な部分にまで金のかかった豪華さを印象付けることが狙いか、安土城や桃山城などのだだっ広い空間に置かれることを想定していたのだろう。

一方で近世の商人・町民の居住・活動空間であれば、都市の町人地は間口の幅に応じて課税されていた。この政策で通りに面して出来るだけ多くの店舗が並ぶことになり、都市の賑わいと商業の発展が促されたのだが、結果として商家は豪商の屋敷であっても間口は限定され、俗に「うなぎの寝床」と呼ばれるような極端に縦長の空間構成になった。

通りに面した表・正面からいくつも部屋が続き、その奥の部屋に「雪松図屏風」を置き、間仕切りの襖を開け広げれば、来訪者はまず縦方向・通りに対して直角に部屋が続く細長い空間のその先に、この絵を見ることになる。三井記念美術館の縦長の展示室は、この商人の町家ならではの空間性をシミュレートできるようになっているのだ。

この見せ方の特殊性は、「雪松図」の屏風絵としては異例な空間表現の、広がりを感じさせるよりも空間を切り取り限定するかのような描き方にも関連しているのかも知れない。写真や映画でいえば広角の画ではなく、望遠レンズで撮ったかのような狭めの画角は、人間が凝視した時の視野の広がり(写真でいえば35mm版で80〜85mm前後の焦点距離の、中望遠レンズ)にほぼ一致していて、だから遠くから、部屋が長細く連なった空間の先の、庭がある手前に「雪松図」が置かれていれば、本当にそこに松が3本立っているかのような錯覚にすら襲われるだろう。

画像: 人間が凝視した時の視野に近い中望遠レンズで撮影。画面内の遠近感とほぼ連続する

人間が凝視した時の視野に近い中望遠レンズで撮影。画面内の遠近感とほぼ連続する

応挙は絵師となる以前はオランダから輸入された光学レンズを使った「眼鏡絵」という立体イリュージョンの光学おもちゃの絵を描いていたと言われるが、それだけにこうした人間の視覚の光学的特性、人が科学的・物理的にどう世界を見ているのかも理解し尽くしていたのかも知れない。

というか町屋造りの、横から光が入らない部屋の連なりの奥、光源となる庭の前に雪松図を置くことは、まるで眼鏡絵を人間が入れる大きさに拡大したような光学効果に近い。

絵は平面でも屏風は立体、そこを計算し尽くした応挙の作り出した驚き

そこがまた、「雪松図」の空間処理のもうひとつのユニークな特徴にも通じている。屏風は折り曲げて立てて使う調度品なので、絵が描かれた面は平坦ではなくなる。絵そのものは平面でも、屏風として飾られた時には立体なのだ。とはいえ久隅守景の「納涼図屏風」(東京国立博物館蔵)のように曲げて斜めに見えることを逆算して建物の表現を工夫したり、尾形光琳の「燕子花図屏風」(根津美術館蔵)のように立体として見られることを計算してあえて画面上の表現はフラットに徹したような例はあるものの、ほとんどの屏風絵は曲げて立てた時の見え方をそこまで意識してはいない。中には狩野永徳の「檜図屏風」(東京国立博物館蔵)のように、本来は襖絵で完全に平面だったものを屏風に仕立て直した作例すら少なくない。

だが屏風が折れ曲がった面を持った立体として見られることは、徹底して立体感を表現しようとした時に、厄介な問題を引き起こす。

古典的な空間遠近法は通常、画面中央に消点を設定し、描く空間内の全ての平行線を究極そこに収斂させることで奥行きを表現する。鑑賞者はその消点に正対し、視線が画面に対して垂直に交わることが前提になる。正面ではなく斜め前から見るように置かれる絵の場合、消点を中央からズラすことはできるが(有名な例がレオナルド・ダ・ビンチのデビュー作「受胎告知」で、消点は右側に座った天使の背後に設定されている)、屏風を立てた状態では絵が描かれた面自体が縦方向に分割され、鑑賞者の視線に対してふた通りの角度で互い違いに並んでしまうので、単一の消点を決めようがない。

絵自体は平面であっても立てた状態の屏風は立体になり、折れ曲がっているので鑑賞者が見る角度も一定にはならない。とは言えほとんどの屏風絵ではこの屏風の立体性と、それゆえに様々な角度から見られる可能性が意識されている訳ではなかったのが、「雪松図」で応挙は角度によって松の見え方が変わることすら計算して、絵に取り込んでいるのだ。

応挙のビジュアル戦略がもっとも顕著に現れているのが、右隻の雄松だろう。右隻には一本の、幹が真っ直ぐの斜めの松、左隻には繊細に曲がった枝ぶりの松が二本描かれて「雌雄」の対比になっていると言っても、正面から、遠くから見た時には左右の印象に大きな違いはなく、全体が調和した松林の風景を一部だけ切り取ったように見える

だが展示室内を進み、つまり京都の商家の町家の屋内空間をシミュレートするなら奥に向かって連なる部屋を案内され、屏風の飾られた部屋に入り、例えば右側に設けられた床の間に向かって座るか、床の間が左側ならそこを背にした上座に座ると、屏風を左斜め前から仰ぎ見ることになる。

画像: 円山応挙「雪松図屏風」江戸時代18世紀 北三井家旧蔵 右隻の雄松は左斜め前より見ると、とたんに強烈な遠近感でそびえ立つ松の木になる

円山応挙「雪松図屏風」江戸時代18世紀 北三井家旧蔵
右隻の雄松は左斜め前より見ると、とたんに強烈な遠近感でそびえ立つ松の木になる

その位置から、畳に座った目の高さで右隻の「雄松」を見ると、堂々たる迫力で上にまっすぐ伸びる松が突然目の前に迫って来る。視点が左から数えて偶数の面にほぼ正対した時に、角度が逆になる奇数の面も含めた全体の画面構成の消点は画面右上のさらに外に設定され、ダイナミックな遠近感で幹の存在感が際立つのだ。

写真や映画に例えるなら、遠くから見た時には望遠レンズの構図だったものが、左斜め前に座ったとたんに広角レンズのローアングル構図で見上げるようになり、松がそびえ立つ。応挙は屋内に通された客が屏風に近づいた時に、距離を置いて見た時とは絵の見方がまったく変わることまで計算して、このまったく異なった迫力を同じ画面内に描ぎ込んでいたのだ。

「雪松図」はありふれた自然が奇跡の輝きを放った一瞬を切り取った絵であると同時に、視点を変えることつまり移動と、その移動にかかる時間性が取り込まれ、鑑賞者がその運動で別の見方を発見した瞬間に、遠目には静的に見えた画面そのものが、ダイナミックな運動性を持って躍動する。静止した一瞬であると同時に、運動と時間をも内包した表現でもある。

明治維新で天皇が去った京都と、三井家

三井記念美術館の新年の展覧会では例年この「雪松図」を中心とするか、関連のある展示が企画される。今年はちょうど改元・天皇家のお代替わりがあったので、「雪松図」と三井家と天皇が接近遭遇した、明治20年のある茶会がテーマになっている。

その茶席に「雪松図」が飾られていたのだ。

画像: 献茶の席図 『京都新古美術会(第16回京都博覧会のこと)品目』上巻より 明治20(1887)年 左に「雪松図」右隻の雄松の幹と枝が描き込まれている。記録には「六畳囲屏風 雪中松 応挙筆」とあり、部屋を屏風で仕切って六畳の茶席を設けるために「雪松図屏風」が使われたことが確認できる

献茶の席図 『京都新古美術会(第16回京都博覧会のこと)品目』上巻より 明治20(1887)年
左に「雪松図」右隻の雄松の幹と枝が描き込まれている。記録には「六畳囲屏風 雪中松 応挙筆」とあり、部屋を屏風で仕切って六畳の茶席を設けるために「雪松図屏風」が使われたことが確認できる

江戸・日本橋室町の越後屋呉服店(現在の日本橋三越本店)が成功と繁栄の出発点だった三井家だが、本拠はずっと京都に置いていた。

その京都で、前近代の天皇は常に御所=禁裏の中にいる存在で、在位中の天皇がその禁裏を出た記録は江戸時代を通じて確か3度か4度しかない(二条城に行幸した御水尾天皇、光格天皇、御所の火災で外に避難した孝明天皇)し、宮家や公家・貴族も今は京都御苑になっている門で仕切られた地域で生活していた。とはいえ即位式などは一般庶民でも参列できたらしいし、また退位した上皇となると比較的自由に外出もしていた形跡もあったり、「宮門跡」と言って天皇家の人間が重要な寺院のトップを務める慣習もあって、江戸時代を通じて天皇は京都の人々にとって親しみのある存在だった。今でも天皇を「陛下」とは言わず「天皇さん」と呼ぶ人が少なくない。

画像: 伝 樂左入 赤楽大福茶碗 三井高平・高房直書 江戸時代18世紀 北三井家旧蔵 樂家第六代の左入の茶碗に三井家二代目の高平とその長男の高房が外側に「福」「寿」の字、見込みに亀の絵を書き込んだもの。三井の本家・北家で慶次に用いる重要な茶碗とされたという

伝 樂左入 赤楽大福茶碗 三井高平・高房直書 江戸時代18世紀 北三井家旧蔵
樂家第六代の左入の茶碗に三井家二代目の高平とその長男の高房が外側に「福」「寿」の字、見込みに亀の絵を書き込んだもの。三井の本家・北家で慶次に用いる重要な茶碗とされたという

またなによりも、「禁裏(=天皇家)御用達」をはじめとする宮廷社会の様々な需要は京都の商工業にとって重要なお得意先であり、宮中の仕事を請け負うことは繊維織物産業や陶磁器、漆器、金工などの手工芸産品のブランド・イメージ形成に大きく貢献もし、また生産者側にとっては品質・技術を高めるインセンティブにもなって来ていた。

このように京都がやはりなんと言っても天皇を中心に栄えた都市だったことが、幕末の動乱と明治維新で激変する。まず「勤皇の志士」を自称する地方の下級武士が幕末期に京都に乗り込んで来たことで治安が悪化し、挙句にその最大勢力のひとつ長州藩が御所に発砲した「禁門の変」が勃発、敗走する長州軍の放火で京都の中心市街地の7割前後が焼失してしまった。

画像: 尾形乾山 銹絵絵替長角皿 (4枚のうち1枚) 江戸時代18世紀 室町三井家旧蔵

尾形乾山 銹絵絵替長角皿 (4枚のうち1枚) 江戸時代18世紀 室町三井家旧蔵

そんな京都の荒廃に追い討ちをかけるように、新政府内では京都が山に囲まれた盆地で近代的な貿易産業立国のための工業立地が確保できず、伝統しきたりの制約も多いことから、首都を移す計画が画策された。京都市民の反発を恐れてこの遷都論は公に議論されることはなく、明治天皇がまず大阪に、そして徳川幕府が天皇に領地を返上した関東を「視察する」という名目で江戸つまり東に「行幸」することになった。

明治天皇の「東幸」である。そして天皇はそのまま江戸城改め宮城・皇居に居を定めてしまった。その後今に至るまで、東京への正式な「遷都」は宣言されていないが、京都市民の期待を裏切って、天皇の住む都の地位が京都に戻って来ることは二度となかった。

画像: 菊桐蒔絵大棗 江戸時代17世紀 北三井家旧蔵 京都・高台寺蒔絵の豪華な逸品

菊桐蒔絵大棗 江戸時代17世紀 北三井家旧蔵 京都・高台寺蒔絵の豪華な逸品

時代の激変と急速な近代化の中で、江戸時代の豪商から近代の大財閥へと変貌する三井家もまた、ビジネス上の拠点は新首都の東京に移して行く。財閥の中枢となる三井銀行と三井物産は、金融業ならやはり東京中心になるし、世界相手に商売を拡大していくには貿易港である横浜を外港に持つ東京と、大阪が中心になるのが必然だった。

それでも三井家の当主はプライベートの家としての本拠は京都に置き、東京の本社には「出張」という形を守り続けはしたし、江戸時代に築いた茶道具など美術品のコレクションと、円山応挙のような文化芸術の担い手たちのパトロンだった精神を継承して、京都の文化を援助し続けた。

画像: 永楽和全(千家十職の一つ土風炉師・善五郎の12代) 菊谷焼菊絵水指 明治時代19世紀 北三井家旧蔵 三井家は永楽(西村)善五郎家を江戸時代から援助し、幕末期の了全・保全の代以降最大の支援者

永楽和全(千家十職の一つ土風炉師・善五郎の12代) 菊谷焼菊絵水指 明治時代19世紀 北三井家旧蔵
三井家は永楽(西村)善五郎家を江戸時代から援助し、幕末期の了全・保全の代以降最大の支援者

さびれた京都を建て直せ! 三井高福と京都博覧会

天皇に伴って公家・貴族も揃って東京に移ってしまうと、京都の産業・商業は重要なお得意先を失ってしまった。御所・大宮御所・仙洞御所は辛うじて宮内省によって維持されたものの、公家屋敷が並んでいたその周囲は、今でこそ京都御苑として丁寧に整備された公園になっているが、当時はボロボロに朽ちてゆく空家と、それを取り壊した空き地だらけになっていたはずだ。

さらに神仏分離令で京都経済のもう1つの大事なお得意様だった大寺院も寺領を没収されて財政基盤を失い困窮し、しかも廃仏毀釈で焼き討ちにあった寺も少なくない。こうして突然、政治の気まぐれで衰退に追い込まれた明治初期の京都は、さぞ荒廃した街になっていたことだろう。

そんな京都をなんとか建て直すために、三井本家(北家)の八代目三井八郎右衛門こと三井高福らが発起人になって立ち上げたのが、明治4(1871)年に第一回が開催された「京都博覧会」だ。初回は西本願寺と知恩院の広大な境内で、2回目以降はなんと天皇の留守中の京都御所と大宮御所・仙洞御所を借りて会場にしていたというから驚きだ。第10回(明治14年)以降は京都御苑の東南部分に専用の博覧会場が整備され、大宮御所の一部が下賜されて移築され、メインの会場建物になった(跡地は今は野球のグランドになっている)。

「京都博覧会」がアピールしたのは、西陣の織物や清水焼などの陶磁器、高台寺蒔絵などの伝統がある漆器や七宝、金工や書画など、伝統工芸に根ざした京都ならではの文化性の高い産品だ。朝廷や公家の需要がなくなって危機に陥っていたとはいえ、新たなマーケットさえ開拓できれば、商品価値の高い産業はまだまだ京都にはあったのだ。

画像: 菊蒔絵面取茶箱 江戸時代18世紀 北三井家旧蔵

菊蒔絵面取茶箱 江戸時代18世紀 北三井家旧蔵

それに幕末の開国以来、国際的なマーケットで日本の強みといえばこうした高度な伝統手工芸技術に支えられた高級民生品で、公家や大名家相手レベルの凝った特注品こそ売れなくなったとしても、近代的な大量生産技術を導入して工程を合理化したり、時代の需要に合わせた商品開発を進めて海外にも新たな市場を確保できれば、内陸の盆地で重工業を誘致する立地の余地がなく、輸出用の港湾もない京都でも、十分に生き残りのチャンスはあった。

この三井高福らの京都復興と近代化ビジョンは、東京に移った明治政府に先んじたものだったとも言える。薩長の下級武士出身者が中心となった明治政府は、西洋列強並みの軍事大国化を念頭に日本に重工業を定着させようと目論んだが、そこはこう言っては難だが「田舎の下級武士」の上昇志向が強過ぎた現実の見えなさの大言壮語というか、もともと鉄鉱石にせよ石炭にせよたいした資源がない日本列島で、いきなり英米並の重工業立国を目指すのはそもそも無理があり過ぎるか、少なくとも一朝一夕でできるものではない。現に明治から昭和初期まで、日本の主要輸出産業として近代化と経済発展を牽引したのは生糸や織物、陶磁器などの軽工業、つまり三井高福たちが京都の復興のために考えた路線の方だったし、このように原材料を生産する農家まで含めて広く利潤が行き渡る工業化によってこそ、日本の近代化は順調に進んだのだった。

画像: 桐木地菊置上茶箱 一式 江戸時代18〜19世紀 北三井家旧蔵

桐木地菊置上茶箱 一式 江戸時代18〜19世紀 北三井家旧蔵

藩閥政府の中では群を抜いて(というかほとんど稀有な例外として)優秀なリアリストだった大久保利通も、内務卿に就任すると明治10年に東京の上野公園で「内国勧業博覧会」を開催している。スローガンは「殖産興業」、「京都博覧会」が先駆けてアピールしていたような伝統産業とその技術を活かした地方の地場産業ベースの製品が幅広く展示された。第一回京都博覧会から6年後のことである。

ちなみに同じ明治10年に近代日本最大で最後の大内戦の西南戦争が勃発、この危機はなんとか乗り切った大久保だったが、翌年に不平士族に暗殺されてしまう。西郷隆盛がすでに西南戦争で死に、大久保も世を去った明治政府で主導権を握った長州閥は、重工業化の「富国強兵」政策を押し進めて行く。国内で深刻な貧富の格差の拡大と、その国内の不満を外に向けた植民地帝国化、さらには原料資源を求めての軍国主義侵略へと突き進んで行ったその結果については、今さら言うまでもあるまい。

明治20年、京都博覧会に明治天皇を招いた茶会

画像: 明治天皇を迎える茶会のために三井高福が永楽和全に焼かせた絢爛たる磁器の天目茶碗 北三井家旧蔵

明治天皇を迎える茶会のために三井高福が永楽和全に焼かせた絢爛たる磁器の天目茶碗 北三井家旧蔵

天皇と首都の座を失って一時はどん底にあった京都は、次々と積極的な復興策を思いついては果敢に実行したこともあって、新しい街として立ち直って行く。禁門の変で中心市街地の多くが焼失したせいもあり、現代の京都には案外と明治創業の老舗が多い。江戸時代以前から懸案だった水不足の解消で琵琶湖から水を引く疎水が整備され、これは輸送用の水路や動力源としても活用された。今の京都の街づくりのベースは、むしろこの幕末から維新にかけての動乱からの復興期のものと言える。

博覧会も順調に回を重ねる中で、清水焼の陶磁器や蒔絵、金工、七宝などの伝統産業は明治の超絶技巧時代に入り、欧米で高級輸出品として人気を獲得した。西陣織も一般向けの最高級和服生地に生まれ変わり顧客を獲得して行く。祇園の花街は江戸時代までの建仁寺の境内地が政府に没収された四条通り南側の土地の払い下げを受けて移転・拡張し、新たな歴史を刻み始める。「都おどり」などもこの時期に始まった観光イベントだ。

京都博覧会は順調に回を重ね、東海道の鉄道が整備されたこともあって、第16回の明治20(1887)年に、ついに天皇を東京から招待することになる。この行幸の金銭出納係を担当したのも三井高福、つまり事実上三井家の出費で天皇をもてなしたと考えてもいいのだろう。

画像: 碌々斎 (表千家11代)「明治天皇献茶会記 」明治20(1887)年 北三井家旧蔵 上段やや左に「六畳囲屏風 雪中松 応挙筆」という記述が。「御茶碗」の項目には「金襴手天目」とある

碌々斎 (表千家11代)「明治天皇献茶会記 」明治20(1887)年 北三井家旧蔵
上段やや左に「六畳囲屏風 雪中松 応挙筆」という記述が。「御茶碗」の項目には「金襴手天目」とある

こうして京都御苑東南の博覧会場の、旧大宮御所を下賜され移築した建物で行われた、明治天皇を迎えての茶会が、この展覧会のメイン・テーマだ。「雪松図屏風」が正式に三井家の記録に登場するのも、この茶会で広間を仕切って茶室を囲うのに使われたことが初めてだという。

三井高福は天皇を迎えるために、永年支援して来た千家十職の一つ、土風炉師・善五郎家の12代・永楽和全(祖父の10代了全までは「西村」姓を名乗る)に、全面に金の装飾を施し、見込みに金で鳳凰を描いた天目茶碗を作らせた。

画像: 永楽和全 赤地金襴手鳳凰文天目茶碗 明治時代19世紀(明治19・1886年?) 天目台は梅材で中川浄益の彫銘あり 共に北三井家旧蔵

永楽和全 赤地金襴手鳳凰文天目茶碗 明治時代19世紀(明治19・1886年?)
天目台は梅材で中川浄益の彫銘あり 共に北三井家旧蔵

この茶席の点前は、表千家の11代・碌々斎だった。

画像: 藤原定家 小倉色紙「うかりける…」 鎌倉時代13世紀 北三井家旧蔵

藤原定家 小倉色紙「うかりける…」 鎌倉時代13世紀 北三井家旧蔵

画像: 御所丸茶碗 李王朝朝鮮時代 17世紀 北三井家旧蔵

御所丸茶碗 李王朝朝鮮時代 17世紀 北三井家旧蔵

画像: 瀬戸肩衝茶入 銘「二見」桃山〜江戸時代17世紀 中興名物 北三井家旧蔵 天皇家の祖先神・伊勢神宮の近くにある夫婦岩で有名な二見ヶ浦に引っ掛けた言葉遊びか?

瀬戸肩衝茶入 銘「二見」桃山〜江戸時代17世紀 中興名物 北三井家旧蔵
天皇家の祖先神・伊勢神宮の近くにある夫婦岩で有名な二見ヶ浦に引っ掛けた言葉遊びか?

画像: 辻与次郎 日の丸釜 安土桃山時代16世紀 北三井家旧蔵

辻与次郎 日の丸釜 安土桃山時代16世紀 北三井家旧蔵

画像: 西村(永楽)了全 黒金入灰器 江戸時代19世紀 素焼きの陶器に何重にも黒漆を塗り重ねた善五郎家の伝統技法 伝 千利休所持 桑柄灰匙 安土桃山時代16世紀 共に北三井家旧蔵

西村(永楽)了全 黒金入灰器 江戸時代19世紀 素焼きの陶器に何重にも黒漆を塗り重ねた善五郎家の伝統技法
伝 千利休所持 桑柄灰匙 安土桃山時代16世紀 共に北三井家旧蔵

画像: 伝 千利休 竹茶杓 安土桃山時代16世紀 北三井家旧蔵

伝 千利休 竹茶杓 安土桃山時代16世紀 北三井家旧蔵

画像: 樂長次郎 黒樂茶碗 銘「メントリ」(面取り、ないし雌鶏?)安土桃山時代16世紀 北三井家旧蔵

樂長次郎 黒樂茶碗 銘「メントリ」(面取り、ないし雌鶏?)安土桃山時代16世紀 北三井家旧蔵

よくぞここまで揃えたものである。

掛け軸は「新古今和歌集」の編纂者で後鳥羽上皇の側近だった藤原定家の名筆で、定家を祖とする冷泉家は代々天皇家と朝廷の和歌の儀式を司って来た家柄だ。その定家の書、それに「御所」に引っ掛けた言葉遊びの御所丸茶碗、やはり言葉遊びで伊勢神宮近くの二見ヶ浦に引っ掛けた「二見」の茶入れなどは、御所風の和歌の伝統を意識しているのだろう。

華麗な鳳凰の茶碗も含めて天皇家本来の伝統への目配せたっぷりに、明治天皇に故郷・京都の宮中で育った幼少期へのノスタルジーを起こさせようとした選択だったのかも知れない。天皇に京都に戻って欲しいというのは、明治も20年にもなればもはや不可能と分かり切っていた話とはいえ、せめて忘れないで欲しい、という主催者側の強い思いも、ここには込められていたように思える。

釜が「日の丸釜」だったのも、明治新国家の国旗に引っ掛けた言葉遊びだろうか? 天皇はこの銘が気に入ったらしく記念の茶碗を作ってはと提案し、永楽和全がこの行幸を記念した365個の「日の丸茶碗」を焼いている(そのうち三口も展示)。

画像: 永楽和全 日の丸茶碗 銘「桜」 明治20(1887)年 北三井家旧蔵

永楽和全 日の丸茶碗 銘「桜」 明治20(1887)年 北三井家旧蔵

一方で、ズラリと並ぶのは、三井家が蒐集して来た、千利休ゆかりと伝わる茶道具だ。

利休の作と伝わる竹茶杓、利休が使ったとされる灰匙や鉄鎌環、そして利休が理想の茶碗として樂家の祖・長次郎に焼かせた「黒樂茶碗」の、長次郎にはいささか珍しい幾何学的で直線的な筒茶碗。

そうした利休のシンプルで奥深い侘び寂びの美学の古びた落ち着きに、西村(永楽)了全の、素焼きに何重にも黒漆を重ねた艶やかな表面に金をあしらった、華やかで真新しく見える灰器と言った組み合わせには、長い歴史の伝統の美学を引き継ぎながらも常に新しい美を生み出して来たのが京都、という心意気も垣間見える。

画像: 野々村仁清 色絵鶏香合 江戸時代17世紀 真鶴羽箒 柄大和錦包 明治時代19世紀 共に北三井家旧蔵 羽箒の柄の錦は香合と色がマッチしている 羽は三井高福が自ら飼っていた鶴のもの

野々村仁清 色絵鶏香合 江戸時代17世紀 真鶴羽箒 柄大和錦包 明治時代19世紀 共に北三井家旧蔵
羽箒の柄の錦は香合と色がマッチしている 羽は三井高福が自ら飼っていた鶴のもの

香合は江戸時代初期に華麗な色絵(利休的な美学とは真逆でもある)で一世を風靡した野々村仁清の得意とした、動物を象ったもので、この席に三井高福が選んだのは鶏。さらに遊び心というか趣味の多彩さで文化の厚みを見せつけるように、羽箒には自分の趣味のひとつである鳥類の飼育から、自分で飼っていた真鶴の羽を三枚仕立てたものを選び、しかも羽を束ねて柄を包む大和錦は、仁清の色絵の香炉に色を合わせているのが、なんともファッショナブルである。

画像: 水指は中国・明時代の染付で祥瑞松竹梅文、杓立は明時代の青磁で左右の耳に輪がつけられた花活けの転用、建水は桃山時代の備前。煌びやかな中国磁器と侘びた風合いの備前焼の対照的な組み合わせ

水指は中国・明時代の染付で祥瑞松竹梅文、杓立は明時代の青磁で左右の耳に輪がつけられた花活けの転用、建水は桃山時代の備前。煌びやかな中国磁器と侘びた風合いの備前焼の対照的な組み合わせ

京都文化の総力結集というか、首都は東京に移ってしまっても、日本の伝統と文化の力は京都にこそあってその厚みは厳然として存続し、新興の東京ごときが敵うものではない、とでも見せつけているような凄みすら垣間見える。

しかもこれだけの道具を揃えて文化を維持できるのは、旧公家の華族でも、士族でもない。自分たち商人こそがその真の伝統文化の継承者にして新たな創造の担い手でもあり続けていることが、この席を囲うのに「雪松図屏風」の100年前の洗練されたモダンな美を配したところ等に、あくまでさりげなく、しかし決然と表明されていたようにも思える。

明治天皇の皇后・一条美子のために女学校で茶会

この3年後の明治23(1890)年に、三井高福は今度は明治天皇の皇后で一条家出身の美子妃(読みは「はるこ」、のちの昭憲皇太后)を接待する茶席を設けることになる。

京都では復興政策の一環として明治5(1872)年に全国で初の公立の女学校が設立されていて、皇后がこの京都府高等女学校に視察のため行啓し、そこで茶を献ずることになったのだ。天皇への献茶は表千家の碌々斎だったが、この皇后のための茶席の点前は裏千家の千宗室(13代・円能斎)だった。

皇后のために準備されたのは、3年前に天皇が使った赤い金襴手の天目と対で焼かれたと思われる、永楽和全による特製の白い天目茶碗だ。鳳凰が共通し、ただしこちらは外側に描かれている。

画像: 永楽和全 白地金襴手鳳凰文天目茶碗 明治時代19世紀(明治19・1886年?) 北三井家旧蔵

永楽和全 白地金襴手鳳凰文天目茶碗 明治時代19世紀(明治19・1886年?) 北三井家旧蔵

天皇のための赤の天目には天皇家本来の伝統でもある東洋・中国文明風の権威あるモチーフが散りばめられていたが、この白天目の方は見込みの絵柄に西洋の意匠も織り交ぜて、ずいぶんエキゾチックな印象だ。

また杓立に用いた染付けの花活は、あえて中国の景徳鎮や日本の伊万里ではなく、なんと「和蘭陀(おらんだ)」もの、つまり中国や日本の磁器を模倣してヨーロッパで作られたデルフト焼きなどが江戸時代の日本に輸入されて茶器になったものだ。

天皇の茶席では豪快に歪んだ高麗茶碗の御所丸や、削ぎ落とした美学の長次郎の黒樂が用いられたのに対し、女性である皇后(それも美子妃は女性の教育を推奨したり、自ら真っ先に西洋風のドレスを着用したような意思の強さも見せる近代女性で、和歌などもよくした知的な教養人だった)を意識してか、仁清の絵茶碗も使われている。

画像: 野々村仁清 色絵薄絵茶碗 江戸時代17世紀 北三井家旧蔵

野々村仁清 色絵薄絵茶碗 江戸時代17世紀 北三井家旧蔵

それも分かりやすく全面に華やかで具象的な色絵を施したものではなく、陶器の土の生地を存分に活かしながらその上に繊細なアクセント的に抽象的なモチーフを色で載せた、落ち着いた洗練を見せる器だ。

画像: 青磁人形手茶碗 明時代16〜17世紀 北三井家旧蔵

青磁人形手茶碗 明時代16〜17世紀 北三井家旧蔵

画像: 女学校で女性をもてなすため揃えられた見た目も華やかな道具。朱塗りの手桶型の水指は表千家の碌々斎の作。染付けの杓立は16〜17世紀のオランダ製、赤樂の灰器は樂家12代弘入(当時の樂家当主)の作

女学校で女性をもてなすため揃えられた見た目も華やかな道具。朱塗りの手桶型の水指は表千家の碌々斎の作。染付けの杓立は16〜17世紀のオランダ製、赤樂の灰器は樂家12代弘入(当時の樂家当主)の作

画像: 釜は銀製の富士型で七代中川浄益、土風炉(善五郎家の本業である)は永楽和全の父・保全の作の、華やかな組み合わせ。共に江戸時代19世紀、北三井家旧蔵

釜は銀製の富士型で七代中川浄益、土風炉(善五郎家の本業である)は永楽和全の父・保全の作の、華やかな組み合わせ。共に江戸時代19世紀、北三井家旧蔵

天皇のための茶席は三井家が気合いを込めて、名品であると同時に見るからに公的な権威の伴った茶器をここぞとばかりに総力を挙げて揃えた、力の入ったものだった。それに対して美子妃へのもてなしには、より洗練された教養と、自由な遊び心が感じられる。

そしてこの席のために選ばれた絵もまた、江戸時代京都の町人文化の粋・円山応挙だった。

中国由来の吉祥の神の福禄寿ではあるものの、神らしいいかめしさなどは無縁で、応挙が日本美術に持ち込んだ新しい価値観のひとつと言われる「かわいい」が、いかにもぴったり来るような愛らしい作だ。

画像: 円山応挙 「福禄寿図・天保九如図」 江戸時代 寛政2(1790)年 北三井家旧蔵

円山応挙 「福禄寿図・天保九如図」 江戸時代 寛政2(1790)年 北三井家旧蔵

なお今回の展覧会では他に、天皇家の紋所でもある菊をモチーフにした様々な茶道具や、歴代天皇の筆も多く含まれた、奈良時代以来の名筆を集めた書のお手本帳の古筆手鑑「たかまつ帖」、それに三井家の当主たち自身が描いた絵も展示されている。

画像: 山本春正 菊蒔絵平棗 江戸時代17世紀 室町三井家旧蔵

山本春正 菊蒔絵平棗 江戸時代17世紀 室町三井家旧蔵

画像: 染付龍文菊型水指 中国・明時代16世紀

染付龍文菊型水指 中国・明時代16世紀

画像: 赤楽菊型金彩平鉢 紀州御庭焼(紀州徳川家が焼かせた器) 江戸時代19世紀 北三井家蔵

赤楽菊型金彩平鉢 紀州御庭焼(紀州徳川家が焼かせた器) 江戸時代19世紀 北三井家蔵

画像: 古筆手鑑「たかまつ帖」奈良〜江戸時代 8〜17世紀

古筆手鑑「たかまつ帖」奈良〜江戸時代 8〜17世紀

画像: 三井高福 「天保九如図」 明治時代19世紀 北三井家旧蔵

三井高福 「天保九如図」 明治時代19世紀 北三井家旧蔵

「雪松図屏風」と志野茶碗「卯花墻」を筆頭に、個々の作品に抜群にいいものが揃っているのはもちろんだが、展覧会のテーマがまた単に「天皇つながり」に留まらず、三井のような豪商(のちに財閥)が単に「商売人」だっただけではなかったこと、そして彼らが文化の厚みこそ経営哲学とビジネスにとって不可欠と考えていたことの一端が見えて来るところも、とても興味深い。

画像: 円山応挙 「福禄寿図・天保九如図」 江戸時代 寛政2(1790)年

円山応挙 「福禄寿図・天保九如図」 江戸時代 寛政2(1790)年

『国宝 雪松図と明治天皇への献茶』2019年12月14日〜2020年1月30日

会期:2019年12月14日(土)− 2020年1月30日(木)10:00−17:00(入館は16:30まで)
月曜日(但し、1月13日、1月27日は開館)、年末年始12月27日(金)~1月3日(金)休館、1月14日(火)、1月26日(日)休館。

主催:三井記念美術館

入館料:一般1,000(800)円/大学・高校生500(400)円/中学生以下無料

※ 70歳以上の方(要証明)、また20名様以上の団体の方は( )内割引料金となります。

※ リピーター割引:会期中一般券、学生券の半券のご提示で、2回目以降は団体料金となります。
※ 障害者手帳をご呈示いただいたお客様、およびその介護者
(1名)は無料です。

会場:三井記念美術館 〒103-0022 東京都中央区日本橋室町2-1-1三井本館7階

東京メトロ銀座線「三越前」駅A7出口徒歩1分/東京メトロ半蔵門線「三越前」駅徒歩3分A7出口徒歩1分
東 京 メトロ 銀 座 線・東 西 線「日 本 橋 」駅 B 9 出 口 徒 歩 4 分

メト ロ リ ン ク 日 本 橋
( 無 料 巡 回 バ ス ) 乗 降 所「 三 井 記 念 美 術 館 」徒 歩 1 分

お問い合わせ先 03−5777−8600(ハローダイヤル)

ホームページ http://www.mitsui-museum.jp

画像: 国宝 志野茶碗 銘「卯花墻」 安土桃山時代 16〜17世紀 室町三井家旧蔵 *以上、写真はすべて特別な許可を得ての取材時に撮影。展覧会での撮影はできません

国宝 志野茶碗 銘「卯花墻」 安土桃山時代 16〜17世紀 室町三井家旧蔵
*以上、写真はすべて特別な許可を得ての取材時に撮影。展覧会での撮影はできません

土曜講座 1月25日(土)14:00−15:30 「京都博覧会と明治天皇への献茶」

講 師:清水 実 (三井記念美術館 学芸部長)
会 場:三井記念美術館 レクチャールーム

定 員:50名 聴講料:2,000円
(無料観覧券1枚付)
申込方法
A )美術館受付(チケットカウンター) で聴講料を添えてお申し込みください。B)FAXでの申込 当館運営部(FAX番号 03-5255-5818)へ 1希望日2氏名3住所4電話番号5FAX番号をご記入のうえ、お送りください。C)ウェブでの申込 当館ホームページ内申込フォームよりお申し込みください。※ FAXまたはウェブでの申込の場合、受講可能な方には、当館より別途聴講料のお支払方法についてご案内いたします。※ 申込先着順にて受付、定員になり次第締切りいたします。※ 最新の情報は当館ホームページでご確認ください。

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