先行特別上映会『ハイ・ライフ』クレール・ドゥニ&黒沢清対談

先週19日から劇場公開が始まったクレール・ドゥニ監督の新作『ハイ・ライフ』。
監督インタビューに続く公開記念特集第2弾として、今回は先月の3月12日にアンスティチュ・フランセ東京で行われた黒沢清監督との対談を掲載します。

司会進行・坂本安美(アンスティチュ・フランセ日本映画プログラム主任)
通訳・福崎裕子

欲望=禁欲から世界のはじまりへ

対談の冒頭、黒沢清監督との対話に集中するために「写真撮影は最後の10分間だけにしてほしい」とクレール・ドゥニ監督から断りの言葉が出る。撮るなら話さず、話すならば撮らない。対談相手への敬意と配慮、話される言葉にすべてを傾注する真摯な態度。クローズアップとは相手が撮影者を許し、受け入れる「特別な瞬間」だと話す映画作家の、撮ることと撮られることへの厳粛な姿勢そのものがそこにはあった。そして、彼女を敬愛する黒沢もまた、撮ることの非情さと厳粛さを作品に焼きつけてきた映画作家のひとりだといえる。「欲望=禁欲」というテーマを核にした今回の対談は、『ハイ・ライフ』の背景にある監督ドゥニの姿勢が明らかになるとともに、黒沢とのあいだに生まれた微妙な齟齬が両者の資質の違いを際立たせ、二人の映画作家の特質が窺い知れる非常に興味深いものとなった。

「欲望=禁欲」とは、別の言い方をすれば「欲望=内面」だとはいえないだろうか。欲望の表出とはつまり、その人間には内面があるということを証している。ドゥニの語る禁欲が、内的な力の保持であり、秩序を維持するために必要なある種の理性的な働きであるのに対して、「欲望があるのかどうか分からない」黒沢作品の禁欲的な人間とは、内面を欠いた、空虚で“空っぽ”の人間のことにほかならない。つまりそれは幽霊であり、カメラによって撮影され、スクリーンに映し出される均質的な存在=影である。彼らがときに空虚な操り人形となり、また現実の絶望と苦しみから逃避するために自ら進んで内面を差し出し、あるいは内面を封殺した修羅にもなることは、「世界」を裏側で支配しコントロールしている『ハイ・ライフ』のジュリエット・ビノシュを挙げるまでもなく、『CURE』(97)の萩原聖人や黒沢作品における哀川翔の存在を見れば明らかだろう。

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映画は原理的に「内面」を必要としていない。内面を持たぬからこそ、それは「世界」になる。だが、その映画という世界をつくり出すのは、内面=感情を持った人間なのだ。感情で仕事をしていると語り、自らが完全に好きではない俳優を撮影することはできないと断言するドゥニの言葉には、まぎれもないひとりの映画作家の生身が現れている。そして、黒沢の新作『旅のおわり世界のはじまり』(19)における前田敦子のクローズアップがドゥニの言う「特別な瞬間」へと重ねられるとき、観客は『ハイ・ライフ』のロバート・パティンソンと同じく、彼女に絶望を越えた先を見つめている者の眼差しを見るに違いない。

原理や法則が支配する厳粛な世界においては、反射し、反応する神経があれば生きていくことはできる。だが、そんな空虚な操り人形としての生に意味はない。感情=内面がなければ歌うことはできないと『旅のおわり世界のはじまり』の前田敦子は話し、世界と対峙する。生きる意味とは、ただ愛すること。二人の映画作家は確信している。ブラックホールと映画の虚無は、無限と永遠へ繋がる「世界のはじまり」になることを。

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「ハイ・ライフ」というタイトル

黒沢清(以下、黒沢) 
本日はこの場に呼んでいただけたことを光栄に思います。クレール・ドゥニの最新作を観ることができたというだけで、こんなにも幸福なことはないと思っています。本当に凄い映画だと思いました。ただ、では何と言ったらいいのか、なかなか言葉がうまく出てこないものがあります。もの凄くシンプルで分かりやすいようにも思えるし、何一つ分かっていないのかもしれない。そういう謎が残っている気がします。ごく普通の男女の愛情、そして嫉妬や欲望という物語をベースにしつつ、そこに精子と卵子が出会う物語が組み込まれているかと思うと、知らないうちにブラックホールへ近づき、そこへ人間が突入していく物語もごく自然に入っている。これはもちろんSFというジャンルだからこそ、できたことなのかもしれませんが、僕はこのようなSF映画をこれまでに観たことがありません。クレール・ドゥニという才能がSFというジャンルに出会うことによって、ここまで複雑で豊かな、衝撃的で実験的、しかも美しい作品に仕上がったのだと思います。まずはこのような映画をつくり、私たちに観せていただいたドゥニ監督に感謝したいと思います。ありがとうございました。

そこで、まず僕から単純な質問をさせていただきたいと思います。『ハイ・ライフ』というタイトルについてです。もちろん、科学者であるジュリエット・ビノシュが支配している宇宙船での奇妙な生活のことを呼んでいるような気もしますが、一方で最後に父親と娘が向かっていく宇宙の果ての、さらに先にあるものを指しているような気もしますし、ひょっとすると、ときどき出てくる地球上の懐かしいある生活の断片を指しているのかもしれない。さまざまな解釈ができるのですが、この「ハイ・ライフ」というタイトルの意味や狙いのようなものを教えていただけますでしょうか。

クレール・ドゥニ(以下、ドゥニ) 
このタイトルは実にシンプルです。もちろん、このタイトルを選んだのは多くの理由がありますが、脚本執筆の段階で、まったくためらうことなくこのタイトルを選びました。「ハイ・ライフ」というタイトルですが、登場人物は地球からやって来て宇宙で暮らしている人々です。宇宙は私たちの周りにありますが、遠く高いところにある。だから「ハイ=High」。彼らがそこで生きているから「ライフ=Life」です。しかし同時に、「ハイ・ライフ」という言葉は、私が幼少期に過ごしていたアフリカでよく耳にしていた言葉でもあります。当時アフリカでは、「ハイ・ライフ」という言葉は音楽のことを指していました。ガーナやナイジェリアで、アフリカ人の音楽家がジャズを演奏するとき、その音楽のことを「ハイ・ライフ」だというふうに言っていたのです。もちろん、そこには白人の植民者たちを多少馬鹿にしている部分があります。つまり、彼らは皮肉を込めて「ハイ・ライフ」と言っていました。私にとって、それはとても重要なことです。映画に登場する人々は宇宙船の中で暮らしていますが、彼らは地球からやって来た地球人であり、死刑判決を受けている。彼らは死刑囚として地球上で死刑を執行され死んでいくのか、または刑罰を低減する代わりに宇宙の旅に出て人体実験のモルモットになるのか、ふたつの選択肢を与えられます。そして、彼らは後者を選んだ。私だって同じ選択をしたと思います。地上の監獄を出て、宇宙でモルモットになるという方を。

黒沢 
なるほど。このタイトルには皮肉がこもっているのですね。つまり、ある種の牢獄であり、囚われた人々という意味も込められているということでしょうか。

ドゥニ 
そうです。フランス語で「ハイ・ライフ」というと、上の方の「ハイ」というより、むしろ高級で豪奢な生活という感じがします。ところが実際には彼らは死刑囚であって、あくまでも宇宙で提案された生活を送っているにすぎません。それは危険に満ちた生活であって、宇宙にいても彼らが囚人であることに変わりはなく、多くの死の危険に晒されています。そして、彼らが地球に帰還できる可能性はまったくありません。つまり、決して「ハイ・ライフ」という言葉が持っている高級で豪奢な生活ではないのです。

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ロバート・パティンソンの眼差し

黒沢 
確かに、言われてみるとおっしゃるとおりです。しかし、不思議に思ったのは、寝ているときに女性が腕を留められていたりはしますが、彼らは囚人でありながら宇宙船の中で鎖に繋がれていたり、牢屋に入っているわけでもなく、一見自由に振る舞っている。その一方で、ジュリエット・ビノシュ演じる科学者ディブスによって、すべてがコントロールされ、ものすごく不自由な環境にいるような感じもする。そういう意味で、船内は牢獄でもあるし、僕たちが生きている社会そのもののミニチュアでもあります。一見、目の前に不自由は何もないけれど、何者かが完全にコントロールしている。そういう世界のように見えました。

ドゥニ
例えば、潜水艦の中で一生を過ごしている人を想像してみてください。あの宇宙船の中で彼らは一見自由に見えます。けれども、ドアを開けて逃げようとすればどうなるか。彼らは太陽系から5光年離れたところにいます。そこにはもはや大気は存在していません。ですから、逃げることはできない。宇宙船の中で鎖に繋ぐ必要はまったくないのです。女性がベッドに繋がれている理由は、彼女たちは人工授精をされ、妊娠しているのを自らの手で堕胎しようと試みました。医師でもあるディブスが「また縛り付けられたいの?」と言っているように、彼女たちは堕胎を繰り返さないために繋がれているのです。反対に、男性の方は虚無の中へと飛び込む自由があるといえるでしょう。もう少し付け加えるなら、アメリカの有名な宇宙物理学者、スティーヴン・ホーキング博士がこう言っています。太陽系を出ると、たとえその端に行くにしても、人間の一生では時間が足りない。だから、すぐに宇宙で生殖をする方法を考えなければならない、と。実際、ホーキング博士は宇宙で子どもをつくる科学的な予測をしています。

黒沢 
いまのお話を伺うと、改めて彼らは囚人なのだと思います。そのなかでも非常に魅力的で印象に残っているのが、主人公のロバート・パティンソンです。彼が終始、絶望のさらに先にある何かを見つけてしまったような、清々しささえ感じる独特な冷たい眼差しをしているのがとても印象的でした。ただ、ああいう眼差しをしている主人公はドゥニ監督作品の中で初めてではありません。誤解かもしれませんが、例えば、『ネネットとボニ』(96)のボニや『ガーゴイル』(01)の主人公がそうです。彼らの絶望の先を見ているような眼差しを今回のロバート・パティンソンにも感じました。これは僕の錯覚でしょうか。

画像2: ©小林夕夏

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ドゥニ 
いえ、間違ってはいないと思います。私の映画の登場人物たちは、映画の最初では少し絶望しているかもしれません。今回の新作のモンテ役であるロバート・パティンソンの場合ですが、彼には赤ん坊がいます。ディブス医師が消えてしまったとき、彼は宇宙船の中でひとりぼっちになってしまいます。彼も死にたい、自分が生きているのはもう嫌だと思ったかもしれません。けれども、彼は赤子がいることに気づく。そうすると、もはや自殺することは不可能になってしまいます。子どもを捨てることはできない。自分自身の生を終わらせて、赤子だけを残すことはできないのです。彼は責任を感じます。このようにして、子どもこそが、彼に初めて愛の生活をもたらしてくれるのです。赤子を寝つかせようとしながら、「お前を溺死させりゃよかった。そのほうがラクだった」と彼が独り言を言うシーンがあります。けれども、彼にはそうすることができませんでした。なぜなら、現に子どもである彼女が生きているからです。彼女にとって、この世界で絶望する理由はひとつもありません。なぜなら、宇宙船の中で生まれたあの生活が彼女の世界のすべてだからです。

黒沢 
確かに彼女は生き生きと、ごく自然に振る舞っていますね。彼女が父親のモンテにお母さんに似ているかと訊ねたとき、彼はまったく似ていないと答える。おそらく、ごく普通の生活であれば、彼は良き父親であって、お母さんとはこういうところが似ているなどと答えるのでしょう。しかし、彼はまったく似ていないと言う。そのときの彼の眼差しや顔つきが本当に印象的でした。温かい父親でありつつ、その先にある、自分が抱えてしまったこれまでの絶望がすべてあの顔に集約されているような気がします。素晴らしい瞬間でした。

ドゥニ 
彼は本当のことを言っているだけなのです。母親には似ていないから、似ていないと答えている。子どものとき、私は母親に似たいと思っていましたが、似ていなかったために悲しく思っていました。女性のモデルとしてあり得るのは母親だけだと思っていたからです。あのシーンで、モンテは自分の娘にそれ以上のことを言っています。母親に似ていないということは、つまり、本当に特別なのだということです。あまりにも特別な存在であるために、彼女のことが好きだと言っている。ほとんど愛の告白です。

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ジュリエット・ビノシュの身体

黒沢 
なるほど。ただ、僕はジュリエット・ビノシュには似ていると思ったのですが、そうではないのですか。

ドゥニ 
彼女はジュリエット・ビノシュの娘ではありません。ディブスはモンテの精子を盗んで、ボイジー(ミア・ゴス)の体に人工授精をしたのです。映画の中のディブスはもう子どもを持つことができない存在です。お腹に大きな傷跡がありましたでしょう。あれは自分の夫と子どもたちを殺したあとに、自らの手で体にナイフを刺し込んだときにできたものです。ですから、もう子どもはできない体なのです。

黒沢 
理屈ではそうなのかもしれません。ただ、僕は娘が登場した途端に、ジュリエット・ビノシュではないかと見間違えるほど似ていると思ったので、そこから逆算して、特殊な科学の力で彼女は自分の遺伝子を残したのではないかと深読みしてしまいました。失礼しました(笑)。

ドゥニ 
フランスでの子どもの作り方をご説明申し上げたほうがよろしいでしょうか(笑)。

黒沢 
いや、それはあとでゆっくり教えていただくとして…(笑)。しかし、そのように間違ってしまうくらい、ジュリエット・ビノシュの役柄は強烈でした。劇中で彼女は科学者であるより魔女であると自ら言っていますが、魔術を使うのではないかと思うくらい強烈なキャラクターだったと思います。科学の限界を超えてしまうほど、野性的な凄みを感じた。だからこそ、そのように誤解したのだと思います。

ドゥニ
ジュリエット・ビノシュが魔女のような存在だというのは私もまったく賛成です。彼女が演じているディブス医師はシェイクスピアの作品に出てくる魔女のようなもので、歴史を自分の手に握り、支配できるような存在です。彼女は地球を離れたときからずっと髪を切らないと決心しました。ですから、その長い髪が魔力のように働くのです。地上にいたとき、彼女は多くのものを失いました。夫や子どもたちを殺した彼女は、ギリシャ神話のメディアのような存在だともいえます。彼女は宇宙で必ず子どもをつくり、生み出すという、ひとつの強迫観念に取り憑かれているのです。スティーヴン・ホーキング博士は太陽系を離れるとあまりにも放射線量が高くなるので、生命が生まれることは難しいと言っていますが、自分が地球上で最も貴重なものを失ってしまったがゆえに、彼女はそうした不可能を可能にしようとするのです。

画像3: ©小林夕夏

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坂本安美(以下、坂本) 
ジュリエット・ビノシュといえば、ドゥニ監督の前作である『レット・ザ・サンシャイン・イン』(17)でも主演を務め、素晴らしかったです。2作品続けてビノシュとコンビを組んだわけですが、ドゥニ監督の作品におけるビノシュは、今まで以上に自分の身体とともにある気がしました。つまり、自らの身体を受け入れて、自由に解放された身体とともにある。今回の新作でも、魔女として恐れられてはいますが、彼女と自身の身体との関係はとても自然で、観る者には決して恐れを抱かせません。

ドゥニ 
『レット・ザ・サンシャイン・イン』と『ハイ・ライフ』は同じ時期に撮影をしています。どう言えばいいのか難しいのですが、私はジュリエットの身体がとても美しいと思います。ですから、彼女を信じています。彼女にもそれが見えるのでしょう。私が彼女を完全に愛していることが彼女には分かっているので、カメラの前での居心地がいいのではないかと思います。それ以外の説明が見つかりません。私は自分が完全に好きではない俳優を撮影することはできません。ですから、私と俳優との関係はとても強いものになります。ジュリエットの場合、私は毎日でも彼女を撮影できます。それはジュリエットの美を理解できるからです。好きな人を見つめていると、すぐにその人の美しさが理解できるのではないでしょうか。

靴を脱ぐ自由ともう一隻の宇宙船

黒沢
おっしゃるとおり美しく、全身で演じているという感じがしました。少し観点が異なるかもしれませんが、不自由な宇宙船の中で、唯一、皆に平等に許されていることがあると思いました。それは裸足になるということです。最初、まだ少女が小さな赤子の頃は、父親とともに宇宙船の中を歩く練習をしているシーンがありましたし、後半、ジュリエット・ビノシュも裸足で船内をずっと歩くシーンがあったと思います。そして、最も印象的だったのは、黒人の乗組員が土の上で靴を脱ぎ、とても幸せそうに横たわる瞬間です。他にもあったかもしれませんが、人工的な宇宙船の中で、ふと人々が裸足になるという表現にはどのような狙いがあったのでしょうか。

ドゥニ 
黒沢監督は洗練された考えを巡らせすぎているのではないでしょうか。私はもっと単純な考え方をする人間です。確かに、父親は子どもに歩き方を教えていますが、あの日、彼女は本当に初めて歩いたのです。あの赤子は出演時に生後16か月でした。初めて月面に一歩を踏み出したニール・アームストロング船長の有名な言葉がありますが、私たちはあの赤子の歩行を「宇宙での初めての一歩」と言っています。また、ディブス医師が裸足で歩くのはモンテの精子を盗みにいくシーンですが、彼女は睡眠薬で他の乗組員全員を眠らせているので、足音を立てないために靴を脱いでいるのです。アンドレ・ベンジャミンが演じているチャーニーが庭園で靴を脱ぐのは死ぬためです。彼は死ぬ前に自分の足でもう一度、土の感触を確かめたかったのです。彼らにはみな靴を脱ぐ自由があることは確かでしょう。もうひとつ、彼らには自由があります。それは、ある特殊なボックスに閉じこもる自由です。あのボックスは孤独なかたちである種の性的な経験をもつことができる場所であり、いわば「スーパー・マスターベーション」ができる場所です。恐ろしく、ひどいかたちではありますが、これもひとつの自由ではあります。

画像4: © 2018 PANDORA FILM - ALCATRAZ FILMS

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黒沢 
あのボックスでのジュリエット・ビノシュは本当に強烈でした。話は飛ぶかもしれませんが、もうひとつ、いまおっしゃった「自由」の延長線上にあるかもしれない、自由が無秩序になった挙句の果てのかたちともいえるとても強烈なシーンがあります。それはもう一隻の宇宙船の中です。これは本当に強烈でした。犬たちの世界になってしまっているのか、それともコントロール不能になっているのかは分かりませんが、もう一隻の宇宙船がやってきて、船内があのようになっているという発想はどこから生まれたのでしょうか。

ドゥニ 
あの発想は私からきたものではありません。ロシアが起源の発想です。ご存知かと思いますが、最初に宇宙に送られた動物はロシアのライカ犬でした。世界中でこの犬は有名になり、おそらく他の動物も送られたはずです。そこで、宇宙で人体実験をするのであれば、動物実験はもっと多かったのではないかと考えました。そうすると当然のように、別の宇宙船があって、人間とともに犬が乗せられていることもあり得ると考えたのです。「ナンバー9」と名付けられたあの宇宙船には、おそらく犬と人間が乗っていて、発見されたときには床に宇宙服が散らばっていますから、犬の方が勝って、完全に人間をコントロールするようになってしまった。犬の方は繁殖し、人間を殺したのか、あるいは人間は死んでしまったのか。いずれにせよ、犬は野生的に繁殖をします。これは一種の地獄、リンボ(=辺獄)です。そこは世界から捨てられたもの、壊されたものたちがいるところなのです。私の想像ですが、実験のために少なくとも10隻の宇宙船が宇宙へと送られ、そのなかで物語の中心になっているのが「ナンバー7」というわけです。

黒沢
なるほど。そうすると、やはりあの犬たちがいる宇宙船のような無秩序状態にならないために、ジュリエット・ビノシュがコントロールしているともいえるのでしょうか。彼女がいなければ、囚人たちはあの犬たちに近い状態になっていたのではないかと。

ドゥニ 
私にも分かりませんが、おそらく「ナンバー9」で行われた実験は「ナンバー7」の実験とは違っていたのではないでしょうか。私は18世紀末にイギリスで起こったバウンティ号の反乱を思い起こしました。反乱を起こした船員たちは、船長はじめ権威を持つ者たちすべてを小船に乗せて追放しました。反乱者たちは「ナンバー9」にいた犬たちのようなものです。彼らはポリネシアの南に商業的な海路から外れたピトケアン島を見つけ、そこで自由に生きることを決めました。しかし、その島で彼らはお互いに殺し合いを始めました。その結果として近親婚が多くなり、自由な楽園を築くはずが、結局は地獄と化した。私にとって宇宙船「ナンバー9」とはまさにこの島のようなものです。日本でこのバウンティ号の反乱がどの程度知られているのかは分かりませんが、ご存知の方もいらっしゃると思います。

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欲望と禁欲、「純潔さ」という概念

黒沢
僕はよく知っています。大好きなというか、大変興味深い話だと思います。またロバート・パティンソンの話に戻りますが、修道士のようだとからかわれながらも、禁欲をしている彼が最終的には生き残り、自らの欲望から生まれたのではないにしろ、子を持ち、娘を育てていく。ひとつの希望というと大袈裟ですが、禁欲が将来に繋がる何かになっていると思います。なぜそこに惹かれたのかというと、僕の映画に対して日本や海外の方から、あなたの映画に登場する人物は何を欲しているのか、欲望があるのかどうか分からないとよくいわれるからです。僕自身は別に禁欲的な映画をつくっているつもりはありませんし、人間はそう欲望だけで生きているはずはない、欲望以外のものも持っていると思っています。ただ、映画の登場人物というと、ある分かりやすい欲望を持ち、何か欲望に満ちた演技をすることによって俳優としての存在感を見せたりするという考えが大多数を占めている。そういう価値観からすると、僕の映画は欲望が希薄だといわれて、いつも寂しい思いをしているのですが、『ハイ・ライフ』では欲望を抑えた人間が最後に勝つ。その意味ではとてもうれしい展開なので、僕はとても楽しかったです(笑)。

ドゥニ 
おっしゃることには私も同意します。しかし、私がそのような「純潔さ」を発明したのではありません。純潔さという主題は古くから様々な物語のなかに出てきます。例えば、中世のアーサー王伝説に出てくる円卓の騎士たちもまた純潔を守っています。なぜなら、浄められ、純潔であることで、一種の明晰さを保持することができるからです。つまり、純潔さが彼らに一種の権力を与えるのです。ランスロットは第1の騎士であるにもかかわらず、純潔の誓いを破ってしまう。そのために、彼に代わってパーシヴァルが剣をとることになるのです。純潔さの例は他にもあります。例えば、ギリシャのスパルタ人たち。純潔であることは、体の内部にエネルギーを保持し、閉じ込めておく方法であり、エネルギーを自分の外に放出して捨ててしまわない方法です。そうしないと、ある種の集中のレベルに達することができない。ホメロスの『オデュッセイア』でも、セイレーンの歌が聞こえないように、オデュッセウスが耳にロウを詰めて誘惑されないようにする場面が出てきます。キリスト教については例に挙げるまでもないでしょう。このように、純潔さの主題は数多く存在しています。純潔さという概念は人間が発明したものですが、そこに女性は関わりを持っていません。逆に女性の場合は純潔であることをつねに強いられ、純潔であるかないかで価値判断される。その是非については判断しませんが、純潔さという考え方には、内的な力の源を自分のなかにとどめるという、いわば人間の最も脆い部分が現れていると思います。人間の歴史には、古くからこうした純潔さの概念がつきまとってきました。

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坂本 
黒沢監督がおっしゃったように、純潔さがロバート・パティンソンを救ったという仮説も成り立ちますが、『ハイ・ライフ』は純潔である方がいいのか、欲望を持つ方がいいのか、その判断はしていない作品だと思います。私はジュリエット・ビノシュが通称「ファック・ボックス」に閉じこもる場面や、船長のラース・アイディンガーが死ぬ前に彼女にフェラチオをしてほしいと懇願する場面も美しいと思いました。そのようなセクシュアリティの良し悪しについては判断していないところに、本作の懐の深さを感じます。

黒沢 
ただ唯一、欲望に突き動かされる若い囚人(ユアン・ミッチェル)は酷い目にあいますよね。男女とも彼を寄ってたかってボコボコにする(笑)。囚人だからということもあるのでしょうが、つい自分の欲望に負けてしまった男の哀れさというか、純潔の掟のようなものがあの宇宙船内にはあるような気がします。

ドゥニ
いいえ、純潔の「掟」があるのではありません。例えば、潜水艦や刑務所では純潔さは強制されてはいませんが、性的な関係を持つことは禁止されています。ですから、あの宇宙船の中でも「ボックス」に入ったり、マスターベーションをすることは許されていても、性的な関係を持つことは完全に禁止されているのです。仮に刑務所内でセックスがあったとしても、それは秘匿すべきものとして存在しています。なぜなら、もしセックスを許してしまったとすれば、あの犬のいる宇宙船「ナンバー9」のような状態になり、狂気が支配することになってしまうからです。刑務所や潜水艦といったシステムは、そのすべてが統制されたものでなくてはなりません。これは秩序の問題であって、その越えてはならない限界がセックスをするということなのです。かつて植民地において奴隷制度が存在したとき、奴隷に対してのセックスは禁止されていました。奴隷同士のあいだで関係が持たれる場合には、子を孕ませる男性と妊娠をする女性との二役を選ぶ必要があったのです。そこに欲望が介在してはならない。そして、そこには歓びもあってはならないのです。奴隷たちにとって、自らの意思でパートナーを見つける自由はまったく存在しませんでした。もちろん、私は大島渚の映画を観ていますので、セックスが禁止されているときに欲望が大きくなることを知ってはいますけれども。

画像4: ©小林夕夏

©小林夕夏

世界のはじまり、あるいは愛の可能性について

坂本 
黒沢監督の新作『旅のおわり世界のはじまり』も今年の6月に公開されますが、『ハイ・ライフ』を観たときに、この邦題でも当てはまるのではないかと思いました。

ドゥニ 
私の新作でいえば、それは別の人生のはじまりかもしれませんね。

坂本 
『ハイ・ライフ』はある意味でとても穏やかな映画でもあると思います。おそらく、それはロバート・パティンソンがとても穏やかに、目の前のことを受けとめている感じがするからです。絶望の渦中にありながら、その穏やかさからは可能性さえ感じます。その点に、黒沢監督の新作にも通じるものがあると思うのですが、いかがでしょうか。

黒沢 
急に引き合いに出されたのでうろたえてしまいますが、確かに『ハイ・ライフ』を日本語のタイトルに変えるとするなら、僕の新作のタイトルに近いようなものになるのかもしれません。僕の新作はウズベキスタンという国で右往左往するだけの話ですが、ドゥニ監督の作品ではその舞台が宇宙の果てになっているといえば、そういえるのかもしれません。しかし、ドゥニ監督と較べると、僕の映画はまったく禁欲的ですね…(笑)。

ドゥニ 
残念に思う必要はありません。禁欲は素晴らしいことです(笑)。それから、ロバート・パティンソン自身は穏やかではないと思います(笑)。彼自身ではなく、モンテという登場人物が穏やかな人間なのです。俳優としての彼は確かに魅力的な人物ですが、実人生においてはモンテとはまったく似ていないかもしれません。彼自身が純潔かどうか私には分かりませんが、彼がモンテという人物をとてもよく理解していたのは間違いありません。

坂本
ドゥニ監督はモンテが娘への愛を見つけたことで生きていく、あるいは別の人生の可能性を見出したというふうにおっしゃいました。実は黒沢監督の新作も愛というテーマがあります。そこで最後に、愛の可能性について、お二人に一言ずついただきたく思います。

黒沢 
僕の新作についてこの場で言うのはあまりにも気恥ずかしいのですが、僕の映画はそんなに大げさなものではありません。ひとりの女性が主人公です。仕事仲間はいるのですが、彼女がたったひとり、彼女にとっては宇宙の果てにも近いようなウズベキスタンという国で、なんとか生きていこうとする。まったくの孤独のなかで、ものすごく分かりやすいひとつの感情だけが彼女の心の支えになる。それは東京にいる恋人であろう男への愛です。大げさに言いましたが、とても分かりやすい物語になっています。人が孤独のなかで生きていくための唯一の心の拠り所。この映画においては、愛というものをそのように使わせていただきました。

ドゥニ 
実は『ハイ・ライフ』の撮影中に私は母を亡くしました。それはとても恐ろしいことでした。週末ごとに病院へ面会に行き、私たちに愛を与えながら段々と彼女が消えていくのを見ていました。彼女はかなりの高齢でしたので、彼女の生命と同時にその愛が消えていくのを目の当たりにしたような気がします。すべての年老いた女性がそうであるように、彼女もまるで少女のようでした。人は群集の中にあっても孤独なことがあります。自分のなかに愛がないとき、愛が送り届けてくれるような贈り物がないとき、人は孤独になります。愛は自分自身がより人間的になるための完全な、ただひとつの「繋がり」ではないでしょうか。たとえひとりであっても、愛は人生を生きるための意味だと思うのです。

坂本 
それでは、お二人の愛で終わりにしたいと思います。本日はどうもありがとうございました。

2019年3月12日、アンスティチュ・フランセ東京エスパス・イマージュにて

(文・構成=野本幸孝)

登壇者プロフィール

クレール・ドゥニ
フランスの監督、脚本家。パリで生まれ、12歳までアフリカ各地で暮らす。フランスに戻った後、高等映画学院で学び、そこで、その後の彼女の映画の大多数で一緒に仕事をすることになる撮影監督のアニエス・ゴダールと出会う。ロベール・アンリコ、ヴィム・ヴェンダース、コスタ=ガヴラス、ジャック・リヴェットなどの有名監督たちのアシスタントとして映画業界でのキャリアをスタートさせた。その後、『ダウン・バイ・ロー』(86)でジム・ジャームッシュ監督と仕事をする。1987年、『ショコラ』で初めて監督・脚本を手掛ける。1950年代の植民地時代、アフリカ独立の際の人種的緊張を描く半自伝的な物語は、1988年のカンヌ国際映画祭コンペティション部門でプレミア上映された後、セザール賞にもノミネートされ、米国で広く批評家の称賛を受けた。1996年、ロカルノ国際映画祭にて『ネネットとボニ』(96)が金豹賞を受賞。『美しき仕事〈未〉』(99)、『ガーゴイル』(01)、『Vendredi soir(原題)』(02)、『35杯のラムショット〈未〉』(08)、『White Material(原題)』(09)、そしてカンヌ映画祭のある視点部門に出品された『バスターズ ―悪い奴ほどよく眠る―〈未〉』(13)と続く。

2017年にジュリエット・ビノシュ、グザヴィエ・ボーヴォワ、ニコラ・デュヴォシェル、アレックス・デスカス、ジェラール・ドパルデューが出演した『レット・ザ・サンシャイン・イン〈未〉』(17)がカンヌ国際映画祭監督週間のオープニング作品として上映されることになり、クレール・ドゥニはカンヌに帰ってきた。ほとんどの作品でジャン・ポール・ファルゴーと共同で脚本を手掛けているが、『Vendredi Soir』でエマニュエル・ベルンエイム、『White Material』でマリー・ンディアイ、『レット・ザ・サンシャイン・イン』でクリスティン・アンゴットと共同脚本を書いている。

黒沢清〔映画監督〕
1955年生まれ、兵庫県出身。大学時代から8ミリ映画を撮り始め、1983年、『神田川淫乱戦争』で商業映画デビュー。その後、『CURE』(97)で世界的な注目を集め、『ニンゲン合格』(99)、『カリスマ』(00)と話題作が続き、『回路』(01)では、第54回カンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞を受賞。また『トウキョウソナタ』(08)では、第61回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査員賞と第3回アジア・フィルム・アワード作品賞を受賞。ドラマ「贖罪」(12/WOWOW)は、多くの国際映画祭で上映された。近年の作品に、第8回ローマ映画祭最優秀監督賞を受賞した『Seventh Code』(14)、第68回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門監督賞を受賞した『岸辺の旅』(15)、『クリーピー 偽りの隣人』(16)、フランス・ベルギー・日本の合作映画の『ダゲレオタイプの女』(16)、『散歩する侵略者』(17)、ドラマ「予兆 散歩する侵略者」(17/WOWOW)などがある。最新作『旅の終わり世界のはじまり』(19)は6月14日(金)よりテアトル新宿、渋谷ユーロスペースほか全国ロードショー。

坂本安美〔アンスティチュ・フランセ日本 映画プログラム主任〕
東京都出身。慶應義塾大学法学部卒。『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』誌 元編集委員。『カイエ・デュ・シネマ』本誌とともにフェスティヴァル・ドトーヌにて黒沢清、青山真治、篠崎誠、諏訪敦彦ら日本の監督 たちを紹介。1996年より東京日仏学院(現アンスティチュ・フランセ東京)にて映画プログラム主任を担当し、フランスから多くの監督、俳優、映画批評家らを招聘 し、日本では上映の機会があまりない作品を中心に紹介しながら、さまざまな映画上映の企画・運営を手がける。2014年のカンヌ国際映画祭では「批評家週間短編作品部門」の審査員を務めた。著書に『エドワード・ヤン 再考/再見』(共著、フィルムアート社)などがある。

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クレール・ドゥニ監督最新作 SFスリラー『ハイ・ライフ』

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クレール・ドゥニ監督最新作 SFスリラー『ハイ・ライフ』

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≪STORY≫
太陽系をはるかに超え宇宙を突き進む一隻の宇宙船「7」。その船内で、モンテ(ロバート・パティンソン)は生まれたばかりの娘ウィローと暮らしている―。宇宙船の乗組員は、9人全員が死刑や終身刑の重犯罪人たち。モンテたちは刑の免除と引き換えに、美しき科学者・ディブス医師(ジュリエット・ビノシュ)が指揮する“人間の性”にまつわる秘密の実験に参加したのだった。だが、地球を離れて3年以上、究極の密室で終わり無き旅路を続ける彼らの精神は、限界に達しようとしていた。
そんな中、彼らの最終目的地「ブラックホール」がすぐ目の前に迫っていた―。

監督・脚本:クレール・ドゥニ(『ショコラ』『パリ、18区、夜。』)
共同脚本:ジャン=ポール・ファルジョー(『ポーラX』)

出演:ロバート・パティンソン(『トワイライト』)、ジュリエット・ビノシュ(『アクトレス~女たちの舞台~』)、ミア・ゴス(『サスペリア』)、アンドレ・ベンジャミン(『JIMI:栄光への軌跡』)ほか

2018年/ドイツ、フランス、イギリス、ポーランド、アメリカ合作/
英語/ 113分/カラー/ 5.1ch / PG-12 /原題:High Life /日本語字幕:岩辺いずみ
配給:トランスフォーマー  
©2018 PANDORA FILM - ALCATRAZ FILMS
 

ヒューマントラストシネマ渋谷、ユナイテッド・シネマ豊洲ほか全国順次公開中

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