「芸術家たちは送信と創造を混同するだろう。彼らは『新しき表現方法』を謳歌してきゃーきゃー叫びつづけ、創造者としての自分が無になってしまう…… 哲学者たちは、送信がさらに送信を拡大すること以外には何の役にも立たないことは、ちょうど麻薬のようなものだということに気がつかないで、目的と方法論争をさかんに繰りひろげる。(略)送信者は個人などというものではない……人間ウィルスだ。」(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ 完全版より/鮎川信夫訳/河出書房新社刊 *太字はバロウズ)
「人間は自分と言う自動車を自分自身が運転していると思っているでしょう、バカな!(略)なぜそれが分からないかというと、カミは食欲とか性欲とか快感を与えて人を動かしますからネ。自分の死後、自分の顔をしたやつじゃないものが『俺だ!』と顔を出すかもしれん(笑)」(水木しげる先生の人生観/『コーネリアスの惑星見学』/『月刊カドカワ』97年1月号収録)
麻薬と妖怪、それぞれに深く溺れた二人の偉人が似たような結論を導き出しているのは、面白い。果たして、自分はどんなウイルス、どんな運転手に操られているのだろうか?

(川勝正幸『ポップ中毒者の手記(約10年分)』より)

ごく個人的なことから。高校3年の夏、渋谷パンテオンでテリー・ギリアム監督の『12モンキーズ』(1995)を観た。元ネタの『ラ・ジュテ』もピアソラも知らない私は、タイムトラベルを題材にした有機的かつ奇形的なSF世界に魅了されつつ、前年に起きた地下鉄サリン事件や阪神淡路大震災の生々しい記憶とともに「世界の終末」という言葉を漠然と思い浮かべていた。1990年代後半、バブル崩壊による不景気は「就職氷河期」を招き、地球の滅亡を予言したノストラダムスはいまだ人々の心の奥底に不安を沈殿させている。そんな先行きの見えない仄暗い時代に、ある日友人から1枚のCDアルバムを渡される。男児が水中で両手を広げたジャケット写真。男の子の鼻先には、人参ならぬ1ドル札がぶら下げられている。アルバムのタイトルは「ネヴァーマインド(気にするな)」と告げていた。その年の秋の文化祭で、私は友人とともにバンドを組み、アルバムの1曲目に収録されている「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」を演奏することになる。

デヴィッド・ロバート・ミッチェルの新作『アンダー・ザ・シルバーレイク』の主人公サム(アンドリュー・ガーフィールド)は、ハリウッドのセレブたちが暮らすロサンゼルスのシルバーレイクで暮らしているが、仕事もなくアパートの家賃も滞納し、立ち退きを迫られている。抜け殻のように日がなベランダで隣家を見つめながらギターを爪弾く彼の部屋には、ニルヴァーナのカート・コバーンと『12モンキーズ』のポスターが貼ってある。そこには紛れもないかつての私がいた。サムの生態を率直に表している劇中の挿入歌、R.E.M.の名曲「ホワッツ・ザ・フリークエンシー、ケネス?」に因んでいえば、これが「周波数の一致」でなくて一体なんだろう。「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」なんて皮肉はもはや足枷にもならない年齢になってはいても、忘れていた古傷のような鬱屈した青春の痛みが疼く。

この「ホワッツ・ザ・フリークエンシー、ケネス?」とエンドロールで流れる「ストレンジ・カレンシーズ」は、ともにR.E.M.が1994年に発表したアルバム『モンスター』の収録曲だ。このアルバムの制作時に、カート・コバーンは自らの手で命を絶っている。コバーンにとってR.E.M.というバンドは憧れの存在であり、2014年にニルヴァーナがロックンロール名誉の殿堂入りを果たした際、ボーカルのマイケル・スタイプがスピーチをしていることからも分かるように(https://rockinon.com/news/detail/100350)、両者は極めて友好な関係にあった。それゆえに、このアルバムに収められた歌には亡くなったコバーンに捧げられた「レット・ミー・イン」をはじめ、「僕は商品じゃない」と歌う「キング・オブ・コメディ」など、カート・コバーンという音楽家がその矛盾と対峙し、葛藤し続けた巨大な音楽産業や、それを取り巻く消費社会への皮肉や反抗、絶望と悲しみが色濃く影を落としている。

画像1: © 2017 Under the LL Sea, LLC

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人々のあらゆる活動が「消費」の論理で覆い尽くされているこの消費社会では、すべては観念=意味や記号へと還元される。欲望と同じように、観念や記号には「限界」がない。自らのアイデンティティの表明と共感をもとにしたロックアイコンたるカート・コバーンもまた、そのような終わりなき消費社会のサイクルを回す歯車=商品のひとつにすぎなかったのだろうか。本作でサムが追い求める美女サラを演じたライリー・キーオは、“キング”ことエルビス・プレスリーの実孫である。劇中でマリリン・モンローの遺作『女房は生きていた』(1962)と同じポーズをとる彼女は、死んだはずの女房が舞い戻ってきたという作品世界のイメージや女優モンローの影だけでなく、「エルビスは生きていた」というアメリカのポップ・カルチャーの「神話」もまた背負っているだろう。さらに、サラを含む失踪した大富豪の映画プロデューサーたちには『百万長者と結婚する方法』(1953)が重ねられ、そこから劇中のバンド「イエスとドラキュラの花嫁たち」へとイメージは連鎖していく。ヒッチコック、リンチ、デ・パルマらの作品世界やモチーフがおもちゃ箱をひっくり返したように記号や観念=意味として二重、三重に重ねられ、分裂し、派生と増殖を繰り返す。サムが体現しているように、答えを追い求めるがゆえに膨らみ続けるそれらの妄想はおそらく無限に可能だ。消費社会を背景にしたポップ・カルチャーは、不安と疑惑、妄想やパラノイアと不可分の関係にある。なぜなら、そこではその社会に生きる自分もまた消費されるひとつの商品=記号にすぎないからだ。消費社会から脱出しようとすれば、その行き着く先はカート・コバーンが辿った自滅か、『ファイト・クラブ』(1999)のタイラーに象徴されるような完全な拒絶か、もしくは「地下」へと沈潜する以外に道はない。

画像2: © 2017 Under the LL Sea, LLC

© 2017 Under the LL Sea, LLC

では、私たちは消費社会の内部であがきながら敗北を運命づけられているのだろうか。他人を「商品」として利用し、勝ち組を謳歌するくらいなら、生涯「負け犬」として生きるほうがいい。そんな心の叫びを無残にかき消すように、シルバーレイクの街には「BEWARE THE DOG KILLER(犬殺しに気をつけろ)」という落書きが蔓延している。負け犬ばかりが徘徊するロサンゼルス、ハリウッドという魔窟。そんな街とハリウッドが描き続けてきたアメリカの夢に、かつて「長いお別れ」を告げた反骨孤高の映画作家がいた。ロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』(1973)こそは、本作の精神的な根本において最も深い影を落としている作品ではないだろうか。私立探偵フィリップ・マーロウ(エリオット・グールド)が訪ねた作家の邸宅には「BEWARE OF DOG(犬に注意)」という看板がかけられている。飼い猫に愛想を尽かされ、依頼人宅の番犬に立ち往生する、寝ぼけ眼で無精ひげを生やした“時代遅れ”のフィリップ・マーロウ。それから40年以上の歳月を経て、スカンクの小便の臭いをまき散らしながら死者の王国と化したハリウッドの霊園を徘徊し、何が時代遅れかも分からずにどん詰まりの道をどこまでも嗅ぎ回り、妄想と現実の間を行き来する21世紀の野良犬たるサムにとっては、もはやすべてが白昼夢なのかもしれない。サムのアパートの向かいには、ひとりの印象的な老婦人が住んでいる。彼女はまるで、マーロウが住むペントハウスの向かいで暮らしていたヒッピーもどきの若い女性たちがそのまま年を重ねたかのような風情なのだ。

1970年代の時代精神と21世紀の白昼夢が交差するその頂点をなすのは、サムが大切に保管している1970年7月号のビンテージ『PLAYBOY』誌のカバーがシルバーレイク貯水池で「再現」される場面だろう。水底深く沈んでゆく美女の恍惚に満ちた倒錯的官能。自作品に頻出する「水辺」というモチーフについて、デヴィッド・ロバート・ミッチェルはこう語っている。「僕はいつも水にインスパイアされているんだ。水辺の光景や音は観客を映画の中に招き込むと思っている。水は物理的なものでもあるけれど、同時に全てを超越するものでもあるんだよ」(『アメリカン・スリープオーバー』パンフレットより)。『アメリカン・スリープオーバー』(2010)における大学生の青年が双子姉妹と語らう夜のプールや、ためらいと決意がないまぜになったまま滑降していくウォーター・スライダー。あるいは前作『イット・フォローズ』(2014)の鮮血で満たされてゆくプール。そこにはいまだ汚されることのない、ひとつのかたちをなす以前のあらゆる可能性を内蔵した可能態としての水が湛えられている。そして何よりも、それらの映像や音響という波=イメージが寄せては返す映画=スクリーンという境界こそが、最も特権的な水辺だとはいえないだろうか。ロバート・ミッチェルは水辺=映画という境界において、街と郊外を、大人と子どもを、虚構と現実を描きだす。

画像3: © 2017 Under the LL Sea, LLC

© 2017 Under the LL Sea, LLC

そう、境界こそが消費社会を撃つ。ロバート・ミッチェルは自作『アメリカン・スリープオーバー』を劇中で見せることで、生き馬の目を抜くハリウッド=消費社会の残酷な現実を露わにしつつ、自らがつくりだした「神話」を解体してみせる。それは消費社会や記号化をその内部から突破しようとする捨て身の試みであり、卑小な自己を破壊する痛快な「遊び」にほかならない。自分自身が自分の「運転手」であることは、自らのうちに限界を規定してしまうことだ。私たちはかつて、ちっぽけな自分の殻など打ち壊して、ポップ・カルチャーという「運転手」に身を委ねて遊んではいなかっただろうか。この世界の真実や意味を探し出そうと、夢中で旅や冒険に繰り出しはしなかっただろうか。「ポップ・ウィルス」に感染したポップ中毒者のひとりではなかっただろうか。私たちは世界から聞こえてくる声や「周波数」に意味や真実があると信じていた。そして、周りにはその真実への信頼と希望を共有できる仲間たちがいた。大人たちから見れば、その姿は滑稽で、熱狂とともに浮かれ騒ぐ馬鹿な若者たちだったのかもしれないけれど。

まだかたちになっていないものたち、いまここにはまだ存在しないものたちのなかにこそ真実はある。それはいつの日かきっと訪れると、私たちは心の底から信じていた。若さにとってはただそれだけが頼りで、生を突き動かす原動力だった。だが、その力によって支えられていた希望や無限の可能性は、いつのまにか妄執とパラノイアへと変わり果てていることに気づく。『イット・フォローズ』においては、若者たちが「死」という終わりと対峙することで自らの持つ若さの限界を知り、それを受容していくのに対して、「若者」を通り越していることに気づかないまま、いまだハリウッドという夢の世界を徘徊しているサムは「何者でもない」ひとりの男なのである。境界や可能性を描くためには「終わり」を知らなければならない。決別の瞬間は必ず訪れる。若さもまたやがて失われてゆくものであること。すべてには終わりがあるということ。サムのように終わることに耐えられず、執着する者がいる。カート・コバーンのように絶望し、命を絶った者がいる。だが、これから得るであろうものもまた、失われゆくものであることを知ったとき、それはかけがえのない輝きを放つ。若さや遊びの時間は終わってもよいのだ。なぜなら、それは終わることで「神話」になるのだから。

もう絶望も希望も持つまい。サムが母親から送られてきた『第七天国』(1927)に涙するように、今の私を形づくったのは終わったもの、無くなったもの、失われたものなのだ。籠の中のオウムは何を語っているのだろう。帰り着く家を失ったサムは、遊びが終わってしまったことの悲しみと心地よい徒労に包まれたまま、ただその残響を胸に抱きしめている。

画像4: © 2017 Under the LL Sea, LLC

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デヴィッド・ロバート・ミッチェル『アンダー・ザ・シルバーレイク』予告編

画像: 【公式】アンダー・ザ・シルバーレイク 10・13公開/本予告 youtu.be

【公式】アンダー・ザ・シルバーレイク 10・13公開/本予告

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【ストーリー】

恋におちた美女が突然の失踪。彼女の捜索を始めたオタク青年サムは、
夢と光が溢れる街L.A.<シルバーレイク>の闇に近づいていくのだが――

“大物”になる夢を抱いて、L.A.の<シルバーレイク>へ出てきたはずが、気がつけば職もなく、家賃まで滞納しているサム。ある日、向かいに越してきた美女サラにひと目惚れし、何とかデートの約束を取り付けるが、彼女は忽然と消えてしまう。もぬけの殻になった部屋を訪ねたサムは、壁に書かれた奇妙な記号を見つけ、陰謀の匂いをかぎ取る。折しも、大富豪や映画プロデューサーらの失踪や謎の死が続き、真夜中になると犬殺しが出没し、街を操る謎の裏組織の存在が噂されていた。暗号にサブリミナルメッセージ、都市伝説や陰謀論をこよなく愛するサムは、無敵のオタク知識を総動員して、シルバーレイクの下にうごめく闇へと迫るのだが――。

監督・脚本:デヴィッド・ロバート・ミッチェル
出演:アンドリュー・ガーフィールド、ライリー・キーオ、トファー・グレイス、ゾーシャ・マメット、キャリー・ヘルナンデス、パトリック・フィスクラー
2018年/アメリカ/140分/カラー/シネスコ/5.1ch
原題:UNDER THE SILVER LAKE/字幕翻訳:松浦美奈
配給:ギャガ
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10月13日(土)より 新宿バルト9ほか 全国順次ロードショー

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