「私は世界に日本人として生きたいと願う。
それはまた、世界人として日本に生きることにもなるだろうと思う。」
ー藤田嗣治

明治半ばの日本で生まれた藤田嗣治は、81年の生涯の約半分をフランスで暮らしました。

その藤田の没後50年を記念する大回顧展が東京に引き続き京都国立近代美術館で開催中です。

激動の20世紀を日本人としていち早く国境を越え世界に飛び出し、二度の世界大戦に遭いながらも広く世界で活躍したパイオニア的存在である藤田の足跡を、油絵、水彩画、手仕事、日記、蔵書、写真を含む128件の作品とともに、全8章で辿っていきます。

今回は欧米の主要な美術館から初来日の作品も含め約20点の代表作が集います。
特に藤田の代名詞とも言える「乳白色の裸婦」が10点以上も一堂に会します。

没後50年経った今だからこそ実現した、質、量ともに史上最大級の回顧展です。
是非足をお運び下さい。

第1章 原風景 ー 家族と風景

1886年(明治19年)、東京に生まれた藤田嗣治は、陸軍軍医の父の転任に伴い熊本で幼少期を過ごし、小学校高学年で東京に戻ります。幼少の頃から画家になる夢を描き、13歳の時に父に画家になりたいという手紙を書き、画家の道への背中を押してもらいます。

明治30年代の東京で青春時代を過ごした藤田は、画家になりパリに留学する夢を見、画技やフランス語の習得に励みました。
そして18歳で東京美術学校西洋画科(現在の東京藝術大学美術学部)に進学を果たし、黒田清輝や和田英作らの指導のもとで腕を磨き、プロの画家への第1歩を踏み出します。

この章では、美術学校で学んだ藤田の原点とも言える絵画の数々をお楽しみ頂けます。

第2章 はじまりのパリ ー 第一次世界大戦をはさんで
「フランスは一生の恩人、パリは普遍の恋人」

1913年8月、26歳になった藤田は、3年という約束でフランスに旅立ち、憧れのパリ留学を果たします。

パリでは前衛美術の洗礼を受け、他の芸術家たちとの出会いに大いに刺激され、これまで日本で学んできた印象派風の手法や画材を全て捨て、前衛や古典を貪欲に学びます。

ところがパリに着いて一年目に第一次世界大戦が勃発し、戦時下を異国で生きる決意をした藤田は、東洋人の自分が現地で売って生活するための絵画は何かという問いに直面し、試行錯誤の末、東洋出身のアイデンティティを背景にした個性的な独自の境地「乳白色の下地」にたどりつきます。

この章では、30歳前後の、まだ無名の藤田が、キュビズムの影響を受けた絵画や、物寂しいパリの周縁を描いた風景画、当時親しく付き合っていたモディリアーニの影響を受けた人物画、そして1920年代前半の藤田の出世作など、初期の藤田作品を多数ご覧いただけます。

住居を構えたモンパルナスのアトリエ内で描いたお気に入りの愛用品のみで構成された出世作。↓
独特の白い下地に細い墨の線で描くという独自の技法により完成した初めての静物画です。
藤田はあえて他の画家が価値を見出しす物とは全く違う視点で絵を描きました。
1921年のサロン・ドートンヌに出品され、翌年には恩師によって日本の帝展にも送られ、母国での本格的なデビュー作となります。
この作品で、藤田は一躍脚光を浴び、売れっ子画家の一人となります。

画像: 藤田嗣治《私の部屋、目覚まし時計のある静物》 1921年 油彩・カンヴァス ポンピドゥー・センター(フランス・パリ)蔵 Photo © Centre Pompidou, MNAM-CCI, Dist. RMN-Grand Palais / Jean-Claude Planchet / distributed by AMF © Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833

藤田嗣治《私の部屋、目覚まし時計のある静物》
1921年 油彩・カンヴァス
ポンピドゥー・センター(フランス・パリ)蔵
Photo © Centre Pompidou, MNAM-CCI, Dist. RMN-Grand Palais / Jean-Claude Planchet / distributed by AMF
© Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833

第3章 1920年代の自画像と肖像 ー 「時代」をまとう人の姿
「私の体は日本で成長し、私の絵はフランスで成長した」

藤田は東京美術学校の卒業制作で自画像を描いた20歳代前半から、80歳を迎えた最晩年の姿まで、半世紀以上にわたり継続的に自画像を描いています。

ここではパリで本格的なデビューをした直後の1921年、トレードマークのおかっぱ頭になりつつも今だに不安げな表情の自画像に始まり、20歳代後半、売れっ子になってからアトリエでお気に入りの「もの」や猫に囲まれた自信に溢れた自画像までが揃えてあります。

一番左側の絵 ↓は額のガラスが反射してよくわかりませんが、不安げな表情の藤田の自画像です。
対照的に生き生きとした自信ありげな表情が右端 ↓の売れっ子になってからの自画像。

藤田はパリでの自身のアイコンとして「おかっぱ頭」「丸眼鏡」「チョビ髭」「金のピアス」といった個性的な風貌をし、一目で本人とわかるようにセルフプロディースしています。

そして絵の中には日本人としてのアイデンティティを表す面相筆と硯は、いわゆる日本の墨と筆で、欧米人が持たないものを主張、背景には自身の独自の境地である乳白色の下地の絵画を描き、自身の作品の個性をアピールするという演出のイメージ戦略がうかがえます。
傍の「猫」は藤田にとって「友だち」で、猫たちはしばしば彼の作品にモデルとして登場します。
この絵は16年ぶりに一時帰国した1929年に第10回帝展に出品されました。

画像1: ©︎Fondation Foujita / ADAGP , Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833 photo©︎cinefil

©︎Fondation Foujita / ADAGP , Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833
photo©︎cinefil

20年代に入ると、パリのセレブリティからの肖像画注文が続くようになります。
東洋の新星に浮世絵のように描かれたいと、好奇心旺盛な女性たちが群がります。

こちらは日本初公開の《エミリー・クレイン=シャドボーンの肖像》。↓
1920年代の藤田の人物表現の中でも代表作の一つ。

モデルとなった注文主は、当時パリで暮らしていたシカゴ出身の裕福なアメリカ人女性。
藤田は20年代の絵にしばしば金箔を用いますが、銀箔が確認できるのはこの作品のみだそうです。
背景の壁の重厚な銀箔に対して、アール・デコ時代特有の最新のファッションドレスを身にまとった人物と、ソファー、クッションの繊細な模様のコントラストが美しい作品です。
足ものに鎮座する猫がまた絶妙なアクセントになっています。

画像: 藤田嗣治 《エミリー・クレイン=シャドボーンの肖像》 1922年 油彩、銀箔、金粉・カンヴァス シカゴ美術館(アメリカ)蔵 © The Art Institute of Chicago / Art Resource, NY © Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833

藤田嗣治 《エミリー・クレイン=シャドボーンの肖像》
1922年 油彩、銀箔、金粉・カンヴァス
シカゴ美術館(アメリカ)蔵
© The Art Institute of Chicago / Art Resource, NY
© Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833

第4章 「乳白色の裸婦」の時代
「私は日本人であるいじょう、女性の肌を描こう」

藤田は1920年代初頭に、ようやく「乳白色の下地」に黒く細い墨で輪郭線で描くという独自の絵画スタイルにたどり着き、その繊細な下地の白さや質感をもっとも生かす画題として、初めて本格的に裸婦に取り組みます。
1921年のサロン・ドートンヌに初めて裸婦を出品したのち、パリの諸サロンに立て続けに裸婦を出して大きな評判と名声を得ることになります。

©︎Fondation Foujita / ADAGP , Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833
photo©︎cinefil

第5章 1930年代・旅する画家 ー 北米・中南米・アジア

藤田が16年ぶりに一時帰国中の1929年10月に世界大恐慌が起こり、翌年にはその影響がヨーロッパやアジアにまで及びます。経済的にも家庭的にも破綻をきたした藤田の1930年前後の作品は、それまでの「乳白色」のイメージを破壊するかのような濃厚な色彩とグロテスクとでもいうべき裸婦によるシュルレアリスム風のものとなりました。

そして1931年秋、20年近く続いたパリでの暮らしを放棄し、新たなパートナーを連れて中南米に渡り、現地制作して展示販売する「旅絵師」のような日々を続け、その土地の風俗や風土を描きます。北米を経て1933年晩秋に日本に帰国し、東京に定住後は、東北地方や沖縄、中国大陸へとアジア圏内の旅を重ねます。

移動が続いたこともあって、この時期の絵画は他の時代よりも水彩画が多いのも特徴です。

ガラリと雰囲気の違う作風は会場でお楽しみ下さい。

第6章 「歴史」に直面する ー 作戦記録画へ

1939年4月、再びパリへ向かった藤田ですが、同年9月に第二次世界大戦が勃発し、パリでの滞在は1年で終わりました。

1940年初夏に帰国した藤田は、祖国の「非常時」に際して長年馴染んだおかっぱ頭を躊躇なく丸刈りにし、戦争取材と「作戦記録画」の制作に邁進します。

この時期、藤田に限らず他の画家も皆、作戦記録画を描いたそうです。

1943年5月の北太平洋アリューシャン列島アッツ島での日米の戦闘を、写真と想像力をたよりに自らの意思で描いた作品 ↓
1920年代後半以降、藤田が追求してきた大画面の群像表現のひとつの到達点といえる作品。

画像: 藤田嗣治《アッツ島玉砕》1943年 油彩・カンヴァス 東京国立近代美術館(無期限貸与作品) ©︎Fondation Foujita / ADAGP , Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833 photo©︎cinefil

藤田嗣治《アッツ島玉砕》1943年 油彩・カンヴァス
東京国立近代美術館(無期限貸与作品)
©︎Fondation Foujita / ADAGP , Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833
photo©︎cinefil

第7章 戦後の20年 ー 東京・ニューヨーク・パリ
「私が日本を捨てたんじゃない、日本が私を捨てたのだ。」

1945年8月の終戦を迎え、戦後、太平洋戦争期に作戦記録画を多数発表したことを戦中の国策協力と糾弾され、1949年3月10日、62歳の傷心の藤田は日本を離れニューヨークへと旅立ちます。これが母国・日本との永別となりました。

最終目的地のフランスの入国許可が下りるまでの約10ヶ月間を過ごしたニューヨークは、藤田にとって西洋の名画や文化との再会の場となり、充実した環境の中で制作意欲は高まり、名品が生み出されます。

ニューヨークで描いた名品の一つ《カフェ》 ↓
どこかレオナルド・ダ・ヴィンチの影響を感じさせますが、ニューヨークでルネサンス時代の美術品に触れて刺激を受けたのかもしれません。

こちらの絵は額までもが藤田の制作によるものです。
是非会場でご確認下さい。

画像: 藤田嗣治 《カフェ》 1949年 油彩・カンヴァス ポンピドゥー・センター(フランス・パリ)蔵 Photo © Musée La Piscine (Roubaix), Dist. RMN-Grand Palais / Arnaud Loubry / distributed by AMF © Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833

藤田嗣治 《カフェ》
1949年 油彩・カンヴァス
ポンピドゥー・センター(フランス・パリ)蔵
Photo © Musée La Piscine (Roubaix), Dist. RMN-Grand Palais / Arnaud Loubry / distributed by AMF
© Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833

第8章 カトリックへの道行き

1950年2月、藤田はおよそ10年ぶりに懐かしきパリへと戻ります。
そして1955年にはフランス国籍を取得します。(その後日本国籍を抹消します。)
パリにおける名声と祖国における誤解との落差は彼の生前には埋まらず、その後一度も祖国の土を踏むことはありませんでした。

このころの藤田は、戦後のパリに残る古い街並みや、新しい時代の中で消えゆく人々の暮らしを描いています。愛らしい子どもたちも、この時代に登場する大事なテーマです。

1959年10月14日、72歳を迎えた藤田は、フランス北東部の歴史ある街ランスのノートルダム大聖堂で、妻とともにカトリックの洗礼を受けます。

洗礼名は尊敬するレオナルド・ダ・ヴィンチにちなみ「レオナール」とし、その後の表記名も「レオナール・フジタ」と変えました。

晩年の藤田は、敬虔な祈りを絵筆に込めるかのように宗教画の制作に静かに没頭していきました。

晩年の代表作であり、藤田芸術の集大成 ↓
真ん中の緻密な衣をまとった聖母を囲む、修道士姿の藤田と君代夫人。

画像: 藤田嗣治 《礼拝》 1962-63年 油彩・カンヴァス パリ市立近代美術館(フランス)蔵 © Musée d’Art Moderne / Roger-Viollet © Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833

藤田嗣治 《礼拝》
1962-63年 油彩・カンヴァス
パリ市立近代美術館(フランス)蔵
© Musée d’Art Moderne / Roger-Viollet
© Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833

音声ガイドで藤田の残した「言葉」を語るのは声優の津田健次郎さん

音声ガイドでは、数多く残された藤田自身の残した言葉の数々と共に展覧会をご案内します。
藤田の言葉を語るのは、声優・ナレーター・ラジオのパーソナリティなど多岐にわたって活動するツダケンこと津田健次郎さん。
低音の渋い声で、藤田の残した「言葉」を静かに熱く語る、画家の栄光と苦悩の物語をどうぞお聴き逃しなく!
所要時間は約30分です。
貸出料金)520円(お一人様一台)

藤田嗣治 生誕祭

藤田の誕生日当日、会場にてSNSで藤田の誕生日をお祝いしていただいた方や、 藤田のそっくりさん姿で来場の方にもれなくオリジナルポストカードをプレゼント!

藤田嗣治の誕生日である11月27日(火)、京都国立近代美術館1階フォトコーナーにおいて、 以下の①もしくは②を確認できましたら、藤田嗣治展オリジナルポストカードをもれなく プレゼントします。
※オリジナルポストカードは5種類をご用意。1名につき1枚のみ。(図柄は選べません)

© Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR,Tokyo, 2018 E2833

①京都国立近代美術館1階フォトコーナーで記念撮影の後、その写真と藤田のお誕生日を祝う コメント、ハッシュタグ「♯藤田嗣治生誕祭」「#藤田嗣治展」を、SNS(ツイッター、フェ イスブック、インスタグラムのいずれか)にて投稿ください。
※オリジナルポストカードのプレゼントは1名につき投稿1回限り ※撮影・投稿は当日のみ

②藤田嗣治の代名詞である「丸メガネ」「オカッパ頭」の2点の藤田嗣治の そっくりさん姿で来場ください。(1点のみは対象外です。)

日時)11月27日(火) 9:30〜17:00(最終入館16:30)
場所)京都国立近代美術館 1階フォトコーナー

よろしければご一緒に心を込めてお祝いいたしましょう!
皆さんのご参加をお待ちしております。

藤田嗣治展
開催概要

会場)京都国立近代美術館
〒606-8344 京都市左京区岡崎円勝寺町

会期)2018年10月19日(金)~ 12月16日(日)

開館時間)午前9時30分~午後5時
     ただし金曜日、土曜日は午後8時まで開館
     *入館は閉館の30分前まで

休館日)毎週月曜日

観覧)一般  1500円(1300円)
   大学生 1100円(900円)
   高校生 600円(400円)

※( )は団体料金で20名以上。
※ 中学生以下は無料。
※ 心身に障がいのある方と付添者1名は無料
(入館の際に証明できるものをご提示下さい)。
※ 本料金でコレクション展もご覧いただけます。

主催)京都国立近代美術館、朝日新聞社、NHK京都放送局、NHKプラネット近畿

後援)在日フランス大使館 / アンスティチュ・フランセ日本

協賛)損保ジャパン日本興亜、大日本印刷、きんでん、JR西日本

特別協力)国際交流基金

協力)東京美術倶楽部、日本航空、日本貨物航空

cinefil 読者プレゼント

下記の必要事項、読者アンケートをご記入の上、「藤田嗣治」京都展プレゼント係宛てに、メールでご応募ください。
抽選の上5組10名様に、ご本人様名記名の招待券をお送りいたします。
記名ご本人様のみ有効のこの招待券は、非売品です。
転売業者などに入手されるのを防止するため、ご入場時他に当選者名簿との照会で、公的身分証明書でのご本人確認をお願いすることがあります。

☆応募先メールアドレス  info@miramiru.tokyo
*応募締め切りは2018年11月24日 24:00 日曜日

記載内容
1、氏名 
2、年齢
3、当選プレゼント送り先住所(応募者の電話番号、郵便番号、建物名、部屋番号も明記)
  建物名、部屋番号のご明記がない場合、郵便が差し戻されることが多いため、
  当選無効となります。
4、ご連絡先メールアドレス、電話番号
5、記事を読んでみたい監督、俳優名、アーティスト名
6、読んでみたい執筆者
7、連載で、面白いと思われるもの、通読されているものの、筆者名か連載タイトルを、
  5つ以上ご記入下さい(複数回答可)
8、連載で、面白くないと思われるものの、筆者名か連載タイトルを、3つ以上ご記入下さい
 (複数回答可)
9、よくご利用になるWEBマガジン、WEBサイト、アプリを教えて下さい。
10、シネフィルへのご意見、ご感想、などのご要望も、お寄せ下さい。
   
抽選結果は、当選者への発送をもってかえさせて頂きます。

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