「それが一体何になる」
その昔の夢が、よしや譬ひ秋の日の
大きな樟の梢のように実になつたからと云つて、
それが何になる。それが為に今の此のおれが
どれだけ幸福になつてゐる。
どれだけ価値(ねうち)を増してゐる。
大都東京の街中で人が後を見返つて、
あれこそあの人だとささやき合つたからと云つて、それが何になる。
人の金を借りて大きな地面を買ひ、
それをまた人に売る仲買人の栄耀は、
それは取りたい人に取らせておけ、生から死まで
ただ自分の本当の楽しみの為めに本を読め、
生きろ、恨むな、悲しむな。
空(くう)の上に空(くう)を建てるな。
思ひ煩ふな。
かの昔の青い陶の器の
地の底に埋れながら青い色で居る――
楽しめ、その陶の器の
青い「無名」、青い「沈黙」。
(木下杢太郎『瀋陽雑詩』より)

フランスのヌーヴェル・ヴァーグを代表する監督のひとりであるエリック・ロメールの『レネットとミラベルの四つの冒険』に「青い時間」と呼ばれる瞬間が出てくる。
大自然のなかで地平線に陽の光がうっすらと立ち昇り、それまで夜闇にざわめいていた木々の音や虫たちの鳴き声がほんの束の間、ぴたりと止む瞬間。一日にわずか1分間だけ訪れるという、その絶対的な静寂の時間の「青さ」とは、現実にある色彩としての青ではなく、まだ大地が呼吸し活動を始める以前の、世界のあらゆる事物が静止した始源としての「青」だ。

北原白秋に並ぶ耽美派の近代詩人と謳われた木下杢太郎が詠んだ「青」もまた、陶器が帯びた実際的な青色を超えて、私たちが生まれる以前の遥か遠い昔、始源としての「青」を思い起こさせるところがある。もっとも、大正期に杢太郎が朔北の地で詠んだこの詩は、「無用の刺激の多い東京」から離れ、それまでの都会情緒溢れる享楽的な詩と決別し、深い思索に沈潜せんとする決意の表れでもあっただろう。

画像1: ©Ray Production Limited, Lemon Tree Media Company Limited.

©Ray Production Limited, Lemon Tree Media Company Limited.

本作の主人公ガオもまた、ひとりの女を追い求め、始源としての青い時間と場所へ向かって長江の流れを遡る。だが、たどり着いたその愛の始源は、静かに、しかし断固としてガオを拒絶する。卑小な自我を大河の流れと揺らぎのなかに融解させながら、名匠リー・ピンビンによる奇跡のような映像によって語られるのは、もはや行くあても帰り着く始源もない、現代中国の漂白と深い悲しみにほかならない。

「長江図」という一冊の詩集が書かれた1989年は天安門事件が起きた年である。愛するがゆえに安楽に身を置くことのできない監督・脚本ヤン・チャオの憂国の情と気概は、この決定的な断絶の年を境に芽を出した中国第6世代の監督たち、ジャ・ジャンクーやロウ・イエ作品の常連俳優であるチン・ハオやワン・ホンウェイの身を通して痛切に伝わってくる。

画像2: ©Ray Production Limited, Lemon Tree Media Company Limited.

©Ray Production Limited, Lemon Tree Media Company Limited.

ガオが愛する女は、流転する時や歴史の川面にとどまる面影や影像のようにも思える。だが、その姿は運河映画の源流ともいえる『アタラント号』で、若き船長ジャンが水の中に幻視した新妻ジュリエットのような儚い幻影ではない。アン・ルーという名前を持ち、生々しい存在感を放つ女は、ガオと同様、確かな悲しみとともに実在し、その生を長江に刻印している。影像と実在というアンの矛盾は、詩集に刻まれた「幸福」と「悲しみ」、「純粋さ」と「生活」に引き裂かれたガオ自身の矛盾であり、現代中国が抱えた矛盾そのものではないだろうか。

いまだとどまることを知らずに前進を続ける中国の経済。取り返すことのできぬ代償と引き換えに、三峡ダムは人々に豊かさという実りをもたらした。だが、ダムの底から聞こえてくる慟哭は耳に残っていつまでも離れることはない。かつてそこで暮らしていた名も無き人々に名を与え、沈黙のなかに掻き消えた慟哭を聞き取ること。ダムの湖底深くに眠る陶の器もまた、その身に始源の「青」をとどめていると、私たちはもはや想像することができない。

ヤン・チャオ監督『長江 愛の詩』

画像: 映画「長江 ~愛の詩~」予告編 youtu.be

映画「長江 ~愛の詩~」予告編

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【ストーリー】
これは誰の記憶なのか――河を遡り、時が巻き戻る。
現実と虚構、現在と過去が交錯する深遠なラブ・ストーリー

死去した父親の後を継ぎ、小さな貨物船の船長となったガオ・チュン(チン・ハオ)。ある日、ガオは機関室で長江図と題された一冊の詩集を見つけ、そこには彼の父親が20年前の1989年に創作したいくつもの詩が記されていた。上海から長江を遡る旅へ出発したガオは詩集に導かれるようにして、行く先々の街で出逢うアン・ルー(シン・ジーレイ)という名の女と再会を繰り返していく。不思議なことに彼女と再会する場所は、すべて「長江図」にその地名が綴られていた。しかし、三峡ダムを境に彼女が現われなくなったことにガオは気づくのだった……。

監督・脚本:ヤン・チャオ
撮影:リー・ピンビン(『珈琲時光』『ノルウェイの森』)
出演:チン・ハオ(『スプリング・フィーバー』『二重生活』)、シン・ジーレイ、ワン・ホンウェイ(『長江哀歌』『罪の手ざわり』)
配給:エスピーオー
2016/中国/北京語/スコープサイズ/カラー/DCP/115分/原題『長江図』/英題『Crosscurrent』

2018年2月17日(土)よりシネマート新宿、YEBISU GARDEN CINNEMA(4K上映)、シネマ・ジャック&ベティほか全国順次公開

画像3: ©Ray Production Limited, Lemon Tree Media Company Limited.

©Ray Production Limited, Lemon Tree Media Company Limited.

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