シネフィルでは、内田伸輝監督の問題作『ぼくらの亡命』が6月24日より渋谷ユーロスペースにて都内独占ロードショーがスタートするにあたり、三夜連続で今作を取り上げてさせていただきこととなりました。

画像1: MATERIALS:©2017 Makotoya Co Ltd.,/©2016 NOBU Production

MATERIALS:©2017 Makotoya Co Ltd.,/©2016 NOBU Production

まず、第一夜は『ぼくらの亡命』の監督の内田伸輝、主演の須森隆文に脚本家の松枝佳紀が迫った座談会を、2017年6月15日夜、渋谷ユーロスペースで行いました。

『ぼくらの亡命』オフィシャル座談会
内田伸輝 監督
俳優 須森隆文
脚本家 松枝佳紀

画像: 左より松枝佳紀、

左より松枝佳紀、

映画をご覧になった上で、もしくは公式サイトで映画についての概要をつかんだ上で、お読みください。ネタバレだらけです。

公式サイト

『ぼくらの亡命』予告

画像: 内田伸輝監督『ぼくらの亡命』 www.youtube.com

内田伸輝監督『ぼくらの亡命』

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すさまじいなというのと、観たくなかったなというのと

松枝:質問というか、まず僕のおおざっぱな感想を言わせてもらうと、2つ。すさまじいなというのと、観たくなかったなというのと(笑)

内田:観たくなかった(笑)

松枝:たとえば今朝、共謀罪法案が成立したわけですが、今日はそういう悪い意味での記念日だと思うんですけども、でも、強行採決のさまだったり、牛歩の様子だったり、へらへら笑っている安倍首相だったり、醜悪極まりない今の日本の姿から目をそらしてはいけないと思うんですよ。そういう意味で「見たくないけど見なければいけないもの」って僕はあると思っていて、『ぼくらの亡命』もそういう「観たくないけれども観なければいけない」映画なんじゃないかと思ったんです。

内田:ありがとうございます。

松枝:非常に興味深くて、自分自身の勉強不足を悔やみました。監督の前作の『ふゆの獣』とか見ておいた方がよかったなって。たとえば『ぼくらの亡命』の中にも獣としての人間が描かれている。きっとそれは『ふゆの獣』にも描かれていて、前作を見ていたら、どんな風に見えるのだろうと思ったんです。もちろん『ぼくらの亡命』は前作を見ていなくても十分面白いものだったんですけど。

内田:人間が持っている本質といいますかエゴイズムみたいなものを描くというところは『ふゆの獣』のときとなんら変わってない。ただ、年月が経ったぶん、僕の意識が変わったというのはあります。『ふゆの獣』を撮影したのが2009年から10年にかけてで、公開されたのが2011年。その予告編づくりの最中に激しい揺れがありました。

松枝:ああ、東日本大震災。そういう時期ですね。

内田:そうです。地震、原発事故、その時代の流れの中で、僕の中で社会に対する眼というものが圧倒的に変わりました。だから、『ぼくらの亡命』も、人間のエゴを描きつつも社会的なものも見ていきたいという方向に変わっていったのかなとは思います。

画像: 内田伸輝監督 うちだのぶてる:監督、脚本家。 1972年11月20日埼玉県出身。油絵を学んでいたが、高校時代に映像を撮り始める。ドキュメンタリー『えてがみ』でPFFアワード2008審査員特別賞、初の長編劇映画『かざあな』で第8回TAMA NEW WAVE グランプリをはじめ多くの賞を受賞。『ふゆの獣』で第11回東京フィルメックス最優秀作品賞受賞と同時に2011年劇場デビュー。他の追随を許さない絶対的映像作家のひとり。映画学校などでの俳優コースの育成をはじめPFF審査員としても活動。

内田伸輝監督
うちだのぶてる:監督、脚本家。
1972年11月20日埼玉県出身。油絵を学んでいたが、高校時代に映像を撮り始める。ドキュメンタリー『えてがみ』でPFFアワード2008審査員特別賞、初の長編劇映画『かざあな』で第8回TAMA NEW WAVE グランプリをはじめ多くの賞を受賞。『ふゆの獣』で第11回東京フィルメックス最優秀作品賞受賞と同時に2011年劇場デビュー。他の追随を許さない絶対的映像作家のひとり。映画学校などでの俳優コースの育成をはじめPFF審査員としても活動。 

描かれている「亡命」はまさに「見たくなかった」今の日本人の姿なんです

内田:大阪の西成区に行ってホームレスの人たちを見たりとか、震災の前から僕の中に社会的な意識みたいなのはありましたが、震災をきっかけに、社会的なものに対する興味を、さらに持つようになった気がします。

松枝:2011年の秋に小劇場の劇団を16劇団集めて「日本の問題」という短編演劇祭をやりました。芝居のあとのトークショーには自民党の河野太郎さんから、評論家の上野千鶴子さんや宇野常寛さんたちをお招きして現代における日本の問題をみんなで話し合うみたいな企画でした。それを思いついたのは、今まさに監督が言われた社会的な意識の変化みたいなものが僕にも起こっていたからです。そのきっかけは震災ではなくて、その前の年に騒がれた「非実在少年がどうのこうの」という東京都で青少年漫画を取り締まろうみたいなのがちょうどあって、それに対する反対意見がTwitterでバーッと飛び交って、それを見ていて思ったんです。普段政治の話をしない人たちが政治のことを語り始めている、「政治の季節」が再びやってくるって。で、そのあとに震災が来て、実際に「政治の季節」がやってきた。それどころか、さらに時代は進んで、急激な右傾化とか、今朝の共謀罪法案のこととか、そういうことになってきた。戦争を知らない子供たちが政治を語り出した。幼稚な人たちが政治に口を出した結果として、幼稚な安倍一強の時代がやってきた。いままさに「政治の季節」の真っただ中にある。

内田:「政治の季節」ってすごく面白い言い方ですね。

松枝:僕らのおやじの時代とかにあったやつですよね。学生運動の時代。そしてそんな「政治の季節」はもう失われてしまったとずっと思っていた、そこが復活してきた。そういう意味でいうと、内田さんが『ふゆの獣』から『ぼくらの亡命』に至る過程で、政治を意識して、政治的な言葉である「亡命」という単語をタイトルに入れたというのも、まさに「政治の季節」が再びやってきたことに呼応しているんだと思います。でも面白いのは「亡命」と言っても、内田さんの映画で描かれている「亡命」は命を張って行われたカツテの亡命とは違っている。グズグズとしていて、その描かれている「亡命」はまさに「見たくなかった」今の日本人の姿なんです。それがこの映画のとっても政治的なところだと思うんです。この映画の主人公たちの「亡命」はぬるいんです。どんなに社会から逃避したって、スマホは使っているし、コンビニにだって入るし、ATMからお金を引き出したりもする。それに、逃げると言っても、海辺に行くだけじゃないですか(笑)

内田:彼らは真剣なんですけども、やっぱり亡命っていうものの本質といいますか、そういうものをわかってないで、言葉の響きとして「亡命」っていう言葉を使っているという感じなんですね。

松枝:そうですね、監督がそれを意識的にやられているのがすごくわかる。

内田:なので最後に「それは亡命とは違うんじゃないかな」って突っ込まれるという(笑)

「命」っていうのは「いのち」っていうよりも「命令」の「めい」だと思った

松枝:だけど、この映画で描かれているのはやっぱり「亡命」だと僕は思うんですよ。「亡命」って命(めい)を亡くすことじゃないですか。「亡命」の「メイ」というのは「命(いのち)」ではなく、命令の「命(めい)」なんです。そして住んでいるテントに主人公が紙に文字書いて貼りまくっているのがまさに自分に貸した言葉、つまり「命(めい)」なんですよね。それは面白いことに、彼のライバルとなる男・達也の家にもある。達也が自分自身に対する「命令」を壁中に貼っている。主人公とライバルは同じように「命(めい)」に囲まれて暮らしている。だから何だというのは、観た人がそれぞれ思えばいいことですが、観ながら興奮するほどに、哲学的に考えさせる記号がちりばめてあって、本当にこの映画は批評するに値する現代日本の寓話だと言っていいと思います。

内田:書道の部分はある種「命(いのち)」ですよね。それを貼っているっていうところ。昇にしろ達也にしろ自分の内面と言いますか、心の叫びみたいなものを貼っていった。まさに彼らの命そのものだったのかもしれないですけども、それを最後に燃やすというのが次への発展っていう風にしていきたいなと思っていました。

松枝:僕は監督と違う印象があって、「命」っていうのは「いのち」っていうよりも「命令」の「めい」だと思ったんです。

内田:おー、なるほど。

松枝:だから達也の家には「感謝の気持ちを忘れるな」とか命令が書かれた紙が貼られているじゃないですか。昇のテントにも命令ではないけれど、よりプリミティブな、デスノート的な思いが「むかつく!」とか書かれていて、いま思うとそれは「命(めい)」そのものと言うよりも、「命(めい)」に囲まれていることへのイラダチとしての「ポスト命(めい)」だけども、それが貼られることによって、「命(めい)」を肯定してしまう装置としてあるやはり「命(めい)」なんですね、つまり本当に亡命とか革命とかしようとするとそこで止まってちゃいけないけど、立ち止まらせるものなわけです、テントの外に貼っている「命(めい)」たちは。だから僕、ラストシーンには痺れましたね。おそろしいカタルシスがある。しかも、女の人が自分から離れて行くと主人公は「行かないでよ」って泣きながら言う、でも実は泣いてないんですよね。ウソ泣きなんです。

内田:そうなんですよ(笑)

松枝:だからあの主人公の姿は、ウソ泣きしてお母さんを呼び止める子供なんだと思う。と思った時に、もやもやしていた一つの疑問が解消したんです。その疑問と言うのは、なぜ「俺たちの」亡命ではなくて、「ぼくらの」亡命なのかってことなんです。主人公が女を呼び止める姿に子供を見たときにわかったんです。こいつはひげ面してても幼い子供なんだって。「俺たちの亡命」ではなく「ぼくらの亡命」じゃないといけないんだって。よく荒戸さんが「日本の幼稚化が進んでる」と言ってたのですが、まさに描かれているのは「幼稚化」で、亡命したって「ぼくらの亡命」だし、国会だって「ぼくらの国会」なんだなと。そういった幼稚化の極みをこの映画は描いている。「政治の季節」は再びやってきたがしかし二度目は幼稚化という泥沼の中だということへの痛烈な皮肉がこの映画にはある。

内田:映画の最後、主人公のノボルがワーッと泣き叫んで「行かないでよ!」っていうんですけども、女が去ってもしばらくは叫んでるんですけど、女が戻って来ないなってわかった瞬間から昇がフッとこう我に返り始めるっていう。

松枝:素晴らしいと思いました。でもあれは当然演出なんですよね?それとも演じている須森さんの、主人公・昇としての正直な反応なんでしょうか?

内田:何度も何度もやり直して、泣く泣かない以前の問題として心の叫びとして出していったというのがあったので、どのタイミングで消えるか、叫びから諦めに変わるかっていうのは何度もやり直した結果だったんですよね。偶然とはちょっと違うんですけども何度もやり直した結果としてああいう風になった。

須森:僕自身出来上がりを見て、「あ、こんなにすっと諦めちゃうんだ」って自分で見ててちょっとびっくりして。

松枝:それがね、よかったです。

画像: 松枝佳紀 まつがえよしのり:脚本家、演出家。アクターズ・ヴィジョン代表。1969年5月12日東京生まれ。京都大学経済学部卒業後、日本銀行に入行。日本経済に関する調査研究に携わる。退職し劇団活動をしていたところ、映画監督の那須博之にスカウトされ東映東京撮影所で働くようになる。那須と企画開発をしていた楳図かずお原作漫画の映画化でデビュー。その映画で監督をつとめた金子修介と「デスノート」なども手掛ける。伝説のプロデューサー荒戸源次郎と晩年を共にし、近年は俳優教育に重きを置いている。

松枝佳紀
まつがえよしのり:脚本家、演出家。アクターズ・ヴィジョン代表。1969年5月12日東京生まれ。京都大学経済学部卒業後、日本銀行に入行。日本経済に関する調査研究に携わる。退職し劇団活動をしていたところ、映画監督の那須博之にスカウトされ東映東京撮影所で働くようになる。那須と企画開発をしていた楳図かずお原作漫画の映画化でデビュー。その映画で監督をつとめた金子修介と「デスノート」なども手掛ける。伝説のプロデューサー荒戸源次郎と晩年を共にし、近年は俳優教育に重きを置いている。 

いろんな政治家たちに今の日本こんな風になってるんですけどって見せたい映画

松枝:ずっと疑問だったのは、なぜこの女にこだわるかってことなんです。理由がないじゃないですか。失礼なことを言ってしまうけど、絶世の美女でもないし、この人じゃなきゃいけないと思うなにかがあるわけじゃないのに主人公の昇はこの女を選ぶし、こだわる。面白いのは、そうやってこだわるくせに、自分とその女の運命の赤い糸を彼自身信じていない。たとえば、「おまえじゃなきゃだめなんだ」とは言わずに「一人にしないでくれ」みたいなことをすごく言う。つまり一人になりたくないから女といるんであって、寂しくないなら誰でもよかったんだということについて、昇は自覚的なんですね。

須森:この人がいないと寂しいという。

松枝:須森さん演じる昇が達也に「お前だって俺から奪ってるじゃねーか」と言う。つまり、運命が決定的に自分側にあると思っていない。向こうでもいいっていう言い方。でも俺に返せみたいな。これはさっきも言及した「幼稚化」とリンクするんですけど、駄々っ子なんですよね。

内田:とくに昇の幼児性みたいなものはものすごく意識して作ったところです。ダルデンヌ兄弟の「ある子供」という映画で、ドア越しに男が「お願いだよ、お金貸してくれよ」って泣くんです。ずっと泣いていて、彼女がお金を出した途端すぐ泣き止んでお金を取って去っていくっていうシーンがあるんです。『ぼくらの亡命』のラストシーンに関してはアダルトチルドレン的なものはかなり意識しています。

松枝:そうなんです。アダルトチルドレン。まさにこの映画は日本と言う国のアダルトチルドレン性を描いている。主人公の昇はまさにアダルトチルドレンな日本の生き写しなんです。そして、それがさらに面白いのは、駄々をこねるにしろ、愛を要求するにしろ、それが全部どういうことか自覚しているということです。これについては終盤わかるんですけど、僕は最初のほうはだいぶ誤解をしていて、つまり、昇は無自覚に母という運命の人を求めていると思ったんですね。一方、デリヘルのボスである重久にとって女は金づるでしかなくて、「きみしかいないんだ」みたいな「ふり」で女たちをつなぎとめているが、それは女をつなぎとめるための方便です。間違っても女を運命の人だなんて思ってない。それってまともだと思うんです。重久の考え。いまの時代、運命の人なんて信じている人のほうを精神病院に送ったほうがいい(笑)。でも、そういう世界だとちゃんとわかってるってこの映画の最初では描かれているのに、須森さん演じる主人公の昇が出てきて、女を運命の人と思い、「亡命」という名の駆け落ちをしようとすることに、いまさら運命の人が居るなんて描いて監督はなにを提示したいんだろうと疑問があった。それが終盤、爽快に解決してゆく。ただその爽快さというのは、包帯を外したら、傷口が腐ってウジがわいていたことに気付くような爽快さ(笑)というか、それを爽快と言っていいのか分からないけど、薄々わかってたんですけど、観ないでおいたら無いことになっていたけど、ああ、やっぱそうでしたかみたいな(笑)、この映画、本当に恐ろしいのは、日本人にとっての無意識の中核を描いちゃってるということなんです。知りたくないこと、観たくないことを描いているから、この映画のこと嫌がる人は絶対いるし、僕も嫌だなーと思ったし。

内田:(笑)

松枝:自分の嫌な「クセ」を見せられてるような感じがする。逃げるべき国もなければ縛られるべき道徳もない中でグズグズうごめいている「ぼくら」。立派なものは何一つなく、道徳らしきものはみんな自分で書いて壁に貼ってつけてるんですね。それは安部政権が奨励している薄っぺらい道徳の教科書ですよ。そう思うと、この映画はほんと今の日本を描いていると思う。論理的にではなくて映画的に。だから、この映画をだれに見せたいかと言うと現代日本の政治家ですね。いろんな政治家たちに今の日本こんな風になってるんですけどって見せたい映画です。

画像: 須森隆文 すもりりゅうぶん:俳優。1988年5月27日静岡県生まれ。明治学院大学心理学部卒業。高校時代に『それでもボクはやってない』(監督:周防正行)を観て俳優業に興味を抱く。大学入学とともに学内外を問わず演劇に関わり、卒業直前の2011年『山犬』で映画デビュー。本作で映画初主演。続く主演作『青春夜話 Amazing Place』公開待機中。

須森隆文
すもりりゅうぶん:俳優。1988年5月27日静岡県生まれ。明治学院大学心理学部卒業。高校時代に『それでもボクはやってない』(監督:周防正行)を観て俳優業に興味を抱く。大学入学とともに学内外を問わず演劇に関わり、卒業直前の2011年『山犬』で映画デビュー。本作で映画初主演。続く主演作『青春夜話 Amazing Place』公開待機中。

こんなにニオイのした映画はないなと僕は思う。

松枝:ニオイっていうのはどうだったんですか?

内田:基本的な役作り面で、オーディションの段階で、たとえばホームレスの人は毎日頭や身体を洗ってるわけではないから爪が汚いとか、そういうリアリティーが欲しいとは伝えました。俳優がホームレスやってます的な空気感では絶対に見せないでくださいね、という約束みたいなものがあったんです。須森さんが役作りの上でそれを実践してくれた。

須森:僕、一年間まともに風呂入らなかったです。

松枝:今は美しいのにね。

須森:僕は全然臭ってないなーと思ってたんですよ。ただ、ヒロインの櫻井さんが終わった後にやっぱり「いや実は・・・臭ってました」と。

松枝:僕は臭わないはずの映画から立ち上ってくる臭いに参りました。あと音ですね。獣のようなセックスとか。食事のシーンもそうですけど、ぐちゃぐちゃと動物たちが餌を食べるように描いているし。

内田:実際臭っていたと言えば、昇は靴を裸足で履いていたので、相当臭っていました。車で移動するときにはあまりにも臭いがきついので、厳重に袋を二重三重にしました(笑)

松枝:素晴らしい話ですけど(笑)これを読んで人がこの映画を見に行きたくなるか分からないですが(笑)

須森:(笑)

松枝:そもそも映画って臭いがない。なのに、こんなにニオイのした映画はないなと僕は思う。

内田:大阪のあいりん地区、バンクーバーのスラム街とかに行って、まず最初に受ける印象は、衝撃的にボロボロのホームレスの姿、次にニオイなんですね。ニオイを映像として見せるにはどのくらいのもので見せるのかということはありました。昇はとくにそういう雰囲気、臭ってきそうな空気感というのがあったのですが、樹冬に関して海に行ってからのテントで臭いをどう表現するかというと髪の毛のウエット感で見せていこうというふうにしました。

松枝:達也の家に行ったあと、樹冬はちょっときれいに戻りますよね。

内田:そうですね、1回目は助けられて、2回目からは化粧をして。

松枝:そうそう、化粧しますよね。そこもよかった。

須森:決定稿の前は…朝の身支度みたいにファブリーズかけてるシーンは今1か所しかありませんが、本当はもっとあったんです。

内田:なにかとファブリーズかけるみたいな(笑)

須森:ことあるごとにファブリーズかける(笑)

松枝:で、それを減らした。

内田:そうですね。編集してて「ちょっとこのシーンはそこまで多くなくていいのかな」と思って。

松枝:だから逆に臭いを感じられたんだと思う。説明的に描いているところが一切なかったので。

内田:遠目にファブリーズをかけてるところが見えるだけ。

ビシビシたたかれてるのは本当だもんね。やべえなぁ。

松枝:僕が俳優教育をやっているときにやっぱり嘘くさい芝居っていうのが嫌いで、そういう演出をしてない監督を呼んでワークショップをやってるんですが、今回現場で嘘くさいって思うことはなかったですか?

内田:嘘くさいと思えばNGにしますね。リアリティを追及しますが、僕自身、リアリティとフィクションの間でリアルに演じることについては、いまどきの俳優たちもコツをつかんできて、ボソボソ喋るだとか抑えて喋るだとか演劇的な芝居にならないリズムだとかは習得はすでにしてると思うんです。それでも感情的に伝わらないと思ってしまうと、僕は、リアリティを無視して、「観客に圧力をかけるような芝居をしてくれ」っていうようなことを何度も何度も言いました。

須森:「それだと伝わらない」ということを都度都度言われて。そこが多分映画の中でのリアリティと本当のリアルは違うんだということなんだと思います。

松枝:須森さんはけっこう怒る感情表現がありますが、独特だなと思って。切れやすい子供っていうか、溜めて溜めてバッと切れる。そういう人格がちゃんといた。だから今日僕はお会いするのが怖かったです(笑)

内田・須森:(笑)

松枝:本人そのままの人連れてきてアレやってんじゃないかなっていう疑惑がありました(笑)。あの昇っていう役の性質は須森さんの中にもあるんですか?

須森:昇ほどすごくはないけれど、あって…それを引っ張ってきて増幅してって感覚でした。ゼロではないです。僕の中にも昇はいます。

松枝:あの殴られるところ本当だもんね。やべえなぁと思って(笑)

内田:何回もやり直しましたね。

松枝:やり直したの!?かわいそう(笑)

須森:でも顔が腫れすぎてつながらないから、氷あててちょっと待つみたいなことがありました(笑)

内田:いろんなアプローチをテイクの中でやっていくんですね。僕自身が昇に与えたのは「反抗したいけれども怖くて動けない」っていう感じだったんですね。それでも演じて熱くなってくると反抗的に見える瞬間があって、それだと全部やったうえで「もう一回やり直し」って言って。5,6テイクくらいずっと殴られてたんだよね。

須森:相手役の松永さんに、僕もかっこつけて「いや本気で当ててください」って言ったんですけど、本当に本気でくる。出来上がりのOKテイクとかだと、本当に小刻みに舌が震えだすんですよ。あれほんとに僕やってて「殺されるんじゃないか」と思って(笑)

松枝:小刻みに震えてるのがいいなと思いました。素晴らしいと思って。

内田:だんだん耳元から赤くなっていくんですよね、ずっと殴られてると。徐々に徐々に赤くなってきて「ああ、人ってこうやって顔が腫れていくんだな」って…。

一同:(笑)

須森:自分で見ても毎回笑っちゃう。

画像: ビシビシたたかれてるのは本当だもんね。やべえなぁ。

自分で稼がないで「金くれよ」って、「お前の世話にはなんねーよ」
…「なってんじゃん!!」

松枝:メインではないけれど効いているのは、主人公の昇が何度も渡辺にお金を借りるために電話するでしょ。あのシーンがないとこの映画って成り立たないなと思っていて。やっぱり日本という国の幼稚性を昇が担っているとすると、自分で稼がないで「金くれよ」って言わせるのがこれまた象徴的で素敵だなと。しかも、その挙句「お前の世話にはなんねーよ」って…「なってんじゃん!!」と。

内田:結局自立ができてないんですよね。

松枝:そう、自立ができてない。だから本当に主人公の昇は日本の象徴なんですよ。

内田:自立してると自分では思ってるんですよね、なので森の中で一人暮らしをしてる気分なんですけども、森の中で援助を受けながらある種ホームレスのニートという、そこから外に飛び出していくことができないという“籠の中の人間”というイメージはあったので、渡辺は昇を飼ってる、飼育しているっていう感覚みたいなものはありました。ある種昇が日本というものの象徴として描かれるんだとすると、渡辺っていうのはある意味アメリカなんですね。自分では独立国だと思い込んでるんですけど完全に枠の中に入ってる。

松枝:まさにそうですね。そうだ!脈絡なく思いついたんですが、デリヘルの名前が「フォレスト・エンジェル」ですよね、これって主人公の昇が森の住人であることともリンクしてますね(笑)。

内田:そうですね(笑)

松枝:昇がフォレスト・エンジェルなのか樹冬がフォレスト・エンジェルなのか。

内田:昇が本当のフォレスト・エンジェルになるつもりでさらっていったっていうところではあるんですけど。

松枝:そして、生い茂るはずのその森が砂地になり、海になる。偽物の楽園であることに気付いていくというか、偽物の楽園であることなんて、重々知ってるんだと思うのですが、ある猶予期間の間は気付かないでおこうと思っているのだけれど、やはり気付かざるをえないところに持っていく。何かきっかけが欲しかったんですよね。樹冬にフッてほしかったみたいなことだと思うんです。これ、僕にもよくあるんですけど、女が居るから前に行けない。だからフッてほしいんだけど、フッてほしくない、でもやっぱフッてほしいというめんどくさい状態に陥る(笑)、フッてもらったら、晴れて船出ができる。僕はそういう状態に陥りがちなんですが(笑)、主人公の昇も、彼女に最後ああいう風に言ってもらって、ようやく船出をする決意がついたんだろうと思います。

画像: 松枝佳紀

松枝佳紀

「コイツはここから俺の所有物になるな」というような、自分のなかにある悪意みたいなものがどんどん出てくる(内田)

松枝:須森さん、主人公の昇は、樹冬のことをどう思っているんでしょうか?

須森:何回か「好き」と言うタイミングがあって、現場で監督に提案したんですよ。「ここ愛してるって言っちゃダメですか?」と。そうしたら「違う」と。それで「あ、わかりました」と。愛までは行かないんだということをすごく思いました。

内田:愛してるという言葉みたいなものを昇自身が理解できるのか。理解してなくても口にする人はたくさんいるにしろ、昇の中で「愛」とは結び付かない。「好きなんだ」はストレートにパッと出てくる。けれど「愛してる」になってくると昇としては言えない。そこまで昇が考えてるかはさて置いて、昇が愛しているのは母親だけなんです、描きはしませんでしたが。

松枝:とは言うものの、主人公の昇は樹冬を運命の人と思っているかのような行動を取る。須森さんご自身は演じながらどう思っていたんですか?真剣に樹冬を愛していた?

須森:それはないと思います。

松枝:最初っから無いんですか?

須森:前半は樹冬との間に運命みたいなものを感じていて、海に行った辺りからはそういうことじゃない所にいる感覚でした。

内田:僕の中では、昇は樹冬というある種のオモチャを手に入れた感じです。それまでずっと孤独だった部分があって、誰か一緒にいてくれたときの喜びみたいなものを昇自身が知った。でもそれが本当に好きだったり心から愛している場合にはもっとアプローチの仕方が変わってくるんだろうなと思うんです。思うのですが、昇はそういう選択をせず、キフユをうまいこと利用して重久を刺し、刺された重久を見てニヤッと笑った。この段階から「コイツはここから俺の所有物になるな」というような、自分のなかにある悪意みたいなものがどんどん出てくるという風な描き方をしました。テントの中での二人の会話では、昇の心のなかに樹冬を好きな気持ちというのはあるんですけども、もう一方で「自分はもうこれで一人じゃないから寂しくない」という所有できた喜び、人として愛するだとかそういった感情ではないものを昇は持っているとして描きました。

画像: 内田伸輝監督

内田伸輝監督

こんなホン書けないなというホンですよね、すごい混沌としてる。

松枝:今回は即興じゃなくてホン(台本)がある。こんなホン書けないなというホンですよね、すごい混沌としてる。これちゃんとホンあるのかな?と思って見ていました。即興でやっているんじゃないかって疑ってた。シナリオがあってそれを演じてるようには見えない。そのような演技的状況をどうやって作りだしたんですか?

内田:撮影前に台本はできていましたけど、まず一か月間昇と樹冬をただ歩かせて、撮影していったんですね。俳優が突然、町中でここから来て用意スタートすると俳優の空気感みたいなものが出たまま歩いちゃう部分があるんですけれど、最初のうちにただひたすら歩くシーンを撮っていくことで、だんだん自分の、昇としての身のこなし方や樹冬としての身のこなし方が板についてくると思ったので、とくに最初の1か月間は歩いてもらいました。その上でセリフのあるシーンになってテイクを重ねていくうちに、もちろんその場での変更も加えつつ、変えていったという感じです。演出はつねに、リアリティ+映像的な圧力を意識しました。

松枝:そんな中で須森さんは「なんだよ、1ヶ月歩かせてばっかりかよ」とか思ったりはしなかったんですか?

須森:なんでだろうとは思わなかったですね。むしろありがたいなと思ったんです。本来であれば俳優が自分で用意していかないといけない部分で、そこに付き合ってくれたというか一緒に役を作っていけたという感覚です。

松枝:演技のワークショップみたいなものですね。

須森:そうですね。それが事前にあったというのはとてもありがたかったですし、それがなかったら役と向きあうのにもっと時間がかかっただろうと思います。

内田:台本の前段階で何をやっていたかをかなり意識をしました。昇以外の役についても、台本に書かれていない部分を実際に撮影をしていったんです。その上で台本の流れに突入していく、伸び代をすごく多くとってあります。

松枝:使ってないけど撮ってあるという部分があるということですね。それも見たいですね。

内田:エチュード・ワークショップ的な感じで「樹冬と重久のある日」というような感じを1日かけて撮影しているときもあれば「重久と佳代のある日」とか。昇と樹冬がひたすら追いかけるシーンも、その時の流れで台本にはないけれども「じゃここ、こういう感じで芝居してみようか」と撮りました。

松枝:すごく贅沢な現場ですね。監督がその場で思いつくんですか?それとも事前に計画されてる演出の中にプログラムされてるんですか?

内田:その場で思いつくときもあれば、計画のときもあります。

松枝:それは何作もやるなかでリアルな映像を撮るための術として磨きをかけている部分?

内田:そうですね。『ふゆの獣』のときはプロットだけで、撮影はずっと60分間長回し。そのときはテープだったのでカメラにテープを入れて60分回せるんで60分間長回しのエチュードというので撮影をしていったんです。その次の『おだやかな日常』は台本を書きましたがシーンはすべて即興という形です。わりと即興ベースの映画を撮っていたせいか、即興の影響から台本に入る前の段階をどう演じるかということをどうしても意識していると思います。

須森さんの体を見て「虐げられている民の体」だなと思った。

松枝:須森さんは顔も骨格も目を引く。僕はアイヌかなと思ったんだけど、本当のところはわからないけど、須森さんの体を見て「虐げられている民の体」だなと思った。

須森:虐げられてる民の体…すごい表現っすね(笑)

松枝:風貌や体つきから須森さんが背負っているものが見えるっていうか。

内田:アイヌ人という意識はしなかったんですね。

松枝:アイヌも森の人ですしね。

内田:僕、アイヌの知識があまりなくって、そうした意識はあまりなかったんですが、最近沖縄に行って、琉球の人たちを見ていて、ある人は日本ではなく沖縄でもなく琉球として国を作りたいというようなことを思っている人もいるし、日本としてやっていくにはいいけれど自分たちのところでは日本国憲法がうまく施行されてないと思っている人たちもいるし、沖縄の人たちの抱えている問題というか心というかと、昇の持っている内面のもやもやというか怒りや苛立ちは少し近いのかなという風に思ったんです。昇が怒りというものを背負えればな、と作っている段階から思っていました。具体的にアイヌの人とか琉球の人とかとは、まったく思ってなかったです。

松枝:琉球の人もね、虐げられている民だし、監督の中に無意識としてあったんですよ。「虐げられている民」の話を書こうというのがどっかに。

須森:虐げられたというのとはちょっと違ってくるかもしれないですけど、僕個人もコンプレックスの塊なわけですよ。ヒゲが濃かったり、頭髪が薄かったりもそうだし、高校生くらいまですごい太ってたんです。体形は自分で痩せようと思って痩せたからこそ僕のなかにその歪さが残っているんです。それは体だけじゃなくて心のなかにも。そこがリンクしていったのかなと今思いますね。

松枝:うん、そう思います。

すべて日本っていうものを描いているうえで正しい。

松枝:また細かい話で悪いんですけど、最後のほうで、ごみを砂に中途半端に隠すでしょ、僕ね、そういうことに感銘を受けるんです(笑)あれ原発処理ですよ(笑)

一同:(笑)

松枝:無理やりすぎるかな(笑)

内田:原発処理とまでは(笑)

須森:面白い!

松枝:でもなんだろう?って思って。このシーンなくてもいいじゃん?っと思って。でもそういうことしちゃうこと人間あるよねっていうことで、僕はあのシーンを書く意味が監督には非常に有ったんじゃないかと思ったんです。

内田:ごみを片付けてすごく中途半端に捨ててしまう部分というのは、彼自身が片付けよう捨てようという意識はあるんだけども、それがものすごく中途半端に終わってるという。まさにあれが昇の性格の現れだと思うんです。

松枝:あれはすっごい素晴らしいと思う!

須森:僕自身すごい本気でやっていたんですけど、どんどん砂で埋まってくるし「ああーもういいや、諦めよう」って(笑)。

松枝:それはすべて日本っていうものを描くうえで正しい比喩、正しい批評になってる。亡命っていうのは正義のためにするものだと思うんですね。ここにいると本当の正義が為せないから、別の国に亡命するというように。だけど、亡命する正義もなければ、ここにとどまる正義もないというようなメルトダウンした状況が今の日本で、自分を律する言葉を壁や便所に貼りまくって自分を鼓舞するわけだけども、その壁に貼る紙に書かれた命令、つまり正義が本当に陳腐で、ゆるせない。そのくだらない良い子ちゃんが日本だと思うんです。それを捨てるっていうのが、まさに「命令」を「亡きものにする」=亡命なんですよ。だからそういう意味で本当に生きようと主人公の昇はしたんだろうと思っています。一方入江さん演じる達也はまじめに日本的なルールをちゃんと生きようとしてる。

内田:ちゃんと生きようと思ったっていうのが達也に与えた設定ではあったんですけど、裏の設定として、震災の影響で、津波で両親を亡くし、干物工場も潮を被ってしまって続けることができなくなっちゃって、彼は残った干物を大切に食べてる。息子だった自分は自分の命をもっと大切に生きなきゃいけないなと思って、自己啓発的にああいうのを貼っているっていう感じだったんです。

松枝:それ聞いたらすごくわかる。僕はそこ誤解してて、彼が映画の中でパソコンでやってる仕事は政府のスパイ的な仕事だと思ってた(笑)。この人意外に中央の仕事やってんじゃないかって(笑)。官僚とか一番縛られてるじゃないですか。こんなとこまできてちゃんと仕事やってんだ、って。しかもセックスもせずに。彼はキフユと寝てませんよね?

内田:寝てないですね。

松枝:愚かですよ。つまらない。そんなヤツについていく女は別にいいんですよ、追っかけなくて。次だ、次!代わりは死ぬほどいますから(笑)。

画像: 須森隆文

須森隆文

物語
■ 東京近郊の森でテント暮らしをする昇(ノボル)は、気に入らない人々への恨みを半紙に筆書し、テントに貼りつける日々を送っている。樹冬(キフユ)と重久(シゲヒサ)らの修羅場を偶然目撃した昇は、樹冬に興味を持ち、彼女の後をつけまわす。重久は樹冬を使って美人局をしていた。騙されている!と思った昇は、樹冬を助けようと誘拐を計画し、身代金を重久に要求するが「バーカ、勝手に殺せ」と重久に一蹴され失敗。捨てられまいと、樹冬は重久に擦りよるが、重久はすでに別の女に美人局をやらせていた。用済みにされた樹冬は重久をナイフで刺した。それを目撃した昇は、樹冬の後を追い「重久は死んだ」と嘘をつき、一緒に日本から脱出しようと持ちかける…。内田が撮り続けてきた「他者への依存」というテーマを掘り下げた。

画像2: MATERIALS:©2017 Makotoya Co Ltd.,/©2016 NOBU Production

MATERIALS:©2017 Makotoya Co Ltd.,/©2016 NOBU Production

須森隆文 櫻井亜衣 松永大輔 入江庸仁 志戸晴一 松本高士 鈴木ひかり 椎名香織 森谷勇太 高木公佑
脚本・監督・美術・録音・音響効果・整音・編集:内田伸輝
撮影監督・スチール・美術・衣装・メイク:斎藤文 
録音:新谷寛行
音楽:Yamikurae[Jacopo Bortolussi, Matteo Polato]
制作:斎藤文・内田伸輝
共同プロデューサー:日下部圭子
プロデューサー:斎藤文 内田伸輝
製作:映像工房NOBU
配給:マコトヤ ©映像工房NOBU
2017年/DCP・Blu-ray/カラー/ステレオ/16:9/115分/製作:映像工房NOBU/
配給:マコトヤ
MATERIALS:©2017 Makotoya Co Ltd.,/©2016 NOBU Production

2017年6月24日(土)より渋谷ユーロスペースにて都内独占ロードショー!

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