『君の名は。』その2


半蔵門から続く新宿通りはJR四谷駅を縦貫し、新宿駅南口を通り、甲州街道へと続いて行く。
ここは地形でいえば尾根で、特に四谷近辺は北側も南側も崖地形となっている。江戸時代初頭紀尾井町あたりの外堀を拡張するためにこのあたりの起伏のある高台に寺院群が移ってきた。
新宿通りから文化放送があったあたりから急激に下坂になり、劇中終盤に象徴的な場面で登場する須賀神社の大階段に突き当たる。階段下の部分は、江戸期から明治にかけて夜鷹などが数多くいた地域の鮫が橋へと続いている。このあたりの断層の一番の下層地域である。

断層を一跨ぎする装置として須賀神社の大階段がある。それは古層から高台の新層までの層を一気に見せる断面であり、古い時間軸から新しい時間軸までを乗り越える、いわばこの映画の「切断」や「亀裂」によって出会う主人公たちの場面そのものの象徴の場所となる。
そういう意味でこの映画の時間に関する考察は、この断層を持って見事に視覚化され、固有の場所性の意味を獲得する。
そして須賀神社とは四谷一帯の産土神で、稲荷社と牛頭天王社の二つの神社の合社。稲荷神社は鮫が橋と権田原の鎮守で、牛頭天王は四谷地区の鎮守として崇敬されている。
劇中登場する「むすび」という概念もまたその土地に関わる氏神を指し、この須賀神社の土地との有り様と重なることに気づかされる。

そして、千年に一度の巨大彗星の来訪は紛れもなく3.11の貞観地震の周期と同じで東日本大震災の地震と同義となっている。
巨大彗星が落下する光景を「それは夢の景色のように、ただひたすら美しい眺めであった」と主人公たちは語っている。巨大な人智を超えた災害は恐ろしく思い出し宮内ことでもありトラウマになる契機でもあるが、それは単純な善悪を超えた超越した神々しいものとして人間の前に立ちはだかるものだとするならば、災害を引き起こす圧倒的な人間の想像力を超えた力は、ただひたすら美しい眺めでもあり得るのである。

芥川龍之介の『地獄変』では、火に包まれる自分の妻子を凝視し地獄を描き切った絵仏師の境地。芸術は善悪未分化の場所に唯一存在でいる根源的な媒体であり行為だということが時にはある。
そんな巨大彗星や常軌を逸した出来事があるから奇跡のきっかけがあるのではなく、何も特別なことが起きなくとも物語は存在するのではないか。奇跡はいつでもどこにでも存在するのではないのか、、、という仮説を立ててみる。シモーヌ・ヴェイユのいうように、この世の中に存在すること自体が既に祝福されていることだとしたら、特別な非日常が起きることだけが物語や奇跡なのではないのではないだろうか。

主人公たちの部屋を舞う埃や窓から差し込む光は宇宙の在り方そのものを示し、引き戸やサッシの敷居の執拗なアップはさまざまな人間の日常の結界を示す。これは宇宙と人間のあいだの調停の話でもあり、和解の話でもある。というより人間は宇宙の一部でもあり、人間によって宇宙が規定されているのかもしれない。
また、記憶喪失という仕組みが使われているが、私たちは常に記憶を喪失しており、また同時に歴史や自分自身の過去を書き換え、語り直しているのである。災害を逃れた別の有り得たかもしれない別の人生の奇跡は誰にでもそこにでも存在し、その平行に走っている線路への路線変更はあり得るのではないか。

もしかしたら死んでいるかもしれない三葉という女性とのやりとり。
東日本大震災後にも時々話題にもなる太平洋側に起きる幽霊の出現。
柳田国男『遠野物語』の九十九話でも出てくる幽霊たんも同じで、幽霊という形を借りて、生前できなかった告白や赦しなど、いわゆる語り直しという精神浄化行っているとも考えられる。
死んだことすら気づいていない死者との対話や逢瀬は誠に甘美である。ある意味不健康な主題を大変爽やかに現代若者たちに見せる手腕は見事で、ふたりは喪失感 に取り憑かれているが、記憶喪失症によりある人物に入れ替わる体験は、モノローグ映画の鑑賞体験そのものではないか。体験しなかった「記憶」や「体験」ということそのものを問いているようでもある。そして過ぎ行く忘却していく青春の体験そのもが記憶喪失的である。

口噛み酒という触媒で、時間や空間を跳び越え、大災害の死傷者をなかったものにするというめでたい話ではなく、人は幾つもの可能性が あった人生を並行して生きている(死んでいる)。特別な奇跡の実例の物語ではなく、我々の世界も様々な時間が捻れ、連なり、絡まり、戻っている。
そして、終盤に世界を救うためにたったひとり奔走する女子(中身は滝であるが)に対し、勅使河原という友人もまた宮崎駿作品に出てくるようなの登場人物で、友情や仁義を重んじ、しかし退屈な日常に異物を挿入したいと願う男子。映画『シン・ゴジラ』を劇場で何度も見に行くタイプである。本来女性性こそが非日常で非予定調和の塊である。
映画の中でもあえて辻褄の合わないところが数多く出てくる。
例えば、瀧と三葉は四谷須賀神社で最後(最初)に出逢うことになるのだが、彼らは彗星落下直前の片割れ時に御神体のある山頂の縁では会ってはいないのではないだろうか。勅使河原は三葉に自転車など貸してはいなかったからである。

そしてこの物語の終盤に体験する(しない。二人は御神体の加工付近で出会っていないのかもしれない。前述した通り、勅使河原は三葉に自転車など貸していなかったから。)「黄昏時」は、映画においてはエリック・ロメールの『レネットとミラベル 四つの冒険』におけるチャプター1の「青い時間」に呼応する。(こちらは明け方なのだが)
それは夜の生物が眠りにつき、昼間の生物が目覚めるまでの一瞬の間。
その時世界は、青の沈黙に包まれるのである。

ヴィヴィアン佐藤 略歴

美術家、文筆家、非建築家、映画批評家、ドラァグクイーン、プロモーター。ジャンルを横断していき独自の見解で何事をも分析。自身の作品制作発表のみならず、「同時代性」をキーワードに映画や演劇など独自の芸術論で批評/プロモーション活動も展開。 野宮真貴、故山口小夜子、故野田凪、古澤巌など個性派のアーティストとの仕事も多い。2011年からVANTANバンタンデザイン研究所で教鞭をもつ。各種大学機関でも講義多数。 

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