オリンピックと映画 ―「栄光のランナー ベルリン1936」他。
「Xメン アポカリプス」

今週は、オリンピックと終戦記念日にかけて映画と戦争とオリンピックについて考えてみましょう。
そして新作をご紹介する「カミング・スーン」のコーナーでは、「Xメン アポカリプス」をとりあげます。

ではまず一曲。ご機嫌なオリンピック映画 「クール・ランニング」からジミー・クリフの歌で「アイ・キャン・シー・クリアリー・ナウ」を聞いていただきましょう。

こちらは冬のオリンピックですが、1988年、常夏の国ジャマイカからカルガリー冬季オリンピックに参戦した、ボブスレーチームの実話をもとにした映画でした。
この映画が封切られた94年当時は、全ての競技においてジャマイカが冬のオリンピックで活躍するなんて信じられなかったものです。が、今やウサイン・ボルトを始めとして、ジャマイカ無くして陸上競技は語れない、というほどの強豪国になっています。時代は変わるんですねェ。

さて。現在、8月6日からリオデジャネイロで行われている第31回オリンピック。すでに寝不足になっている方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 また、来週月曜日15日は終戦記念日です。

オリンピックと戦争。「平和の祭典」と呼ばれていたオリンピックですが、その開催には戦争が大きな影を落としています。
第一次世界大戦と第二次世界大戦のときには三回の大会が中止されていますし、
80年のモスクワと84年のロサンゼルスは、それぞれアメリカとソ連がボイコットしあう、ということもありました。

第一回のアテネ大会が開かれたのは1896年。
映画が誕生して約一年後です。オリンピックの記録映画が最初に作られたのは1912年のストックホルム大会でした。以来、毎回記録映画が制作されています。
オリンピックは、理念としては戦争する代わりにスポーツで競争しようというものでした。しかし、逆にナショナリズム昂揚の場として利用されるようになっていきます。
記録映画もそのために利用されました。有名なのが1936年のベルリン・オリンピックを記録した『民族の祭典』です。

女優でもあったレニ・リーフェンシュタールが監督したベルリン・オリンピック記録映画は、『民族の祭典』と『美の祭典』の二部に分かれています。『民族の祭典』は陸上競技を『美の祭典』はそれ以外の競技を中心にまとめてあります。

第二次世界大戦後は、ナチスの全面的協力のもとに作られたことを理由に、ナチスのプロパガンダ映画として批判されました。しかし、純粋に映画作品としてみると、その映像美と、オリンピックの記録映画である事を越えて、一つの美学的な映像作品として作り上げられた映画として高く評価できるものです。
レニ・リーフェンシュタールは、何よりも選手の躍動美・肉体美をとらえることに集中し、撮り直しや照明・効果音も使用し、試合ではなく練習中の映像なども使用、美的に効果的な編集をして一本の映画作品に仕上げました。
そのまま記録したものではなく、撮り直しつまり「やらせ」がある、演出があるから、ドキュメンタリーとして認めない、という説もありますが、選手の肉体とスポーツ、オリンピックという「事実」を素材に、監督が主体性を持って作られた映画作品、としてのドキュメンタリーという点で、時代の先をいった作品であったと私は思います。

この『民族の祭典』のヒーローのひとりがジェシー・オーエンスです。アフリカン・アメリカンの陸上選手で、100m・200m・400mリレーと走り幅跳びで4つの金メダルを獲得しています。人種差別政策をとっていたナチスドイツのもとで開かれたオリンピックで、アフリカン・アメリカンの選手がこんなに活躍してしまうのは、大いなる皮肉でした。
しかし、レニの映画では、だんだんと観衆が熱狂し「オーエンス、オーエンス」と声援を送るというシーンがあります。録音技術がまだあまり発達していない頃なので、同時録音で録れているのはヒトラーや選手の肉声だけと言いますが、競技中の大観衆の歓声は同時録音されてしまうと思うので、このオーエンスへの声援は本物ではないかと私は思います。

8月11日から有楽町のTOHOシネマズシャンテで公開される『栄光のランナー 1936ベルリン』は、このオーエンスの伝記映画です。
アメリカ国内の人種差別を乗り越え、オリンピックで金メダルを獲得するまでの彼の戦いと、彼を支えた人々の物語です。

このベルリン・オリンピックにはもう一人、後に映画になったアメリカの選手が出ています。
ルイス・ザンペリーニという長距離の選手で、5000mで8位になりましたが、最終ラップ400mを56秒で走り、ヒトラーに讃えられました。
彼はその後、1941年アメリカ陸軍航空隊に入り、1943年海に不時着して47日間漂流の末、日本軍の捕虜になります。
このザンペリーニの経験を描いたのが、アンジェリーナ・ジョリー監督の『アン・ブロークン 不屈の男』です。

もうひとり、オリンピック選手だったけれど、戦争で人生を変えられた人のひとりが、1932年のロサンゼルス・オリンピック馬術金メダリストの西 竹一です。彼の最後は『硫黄島からの手紙』に描かれましたね。

また、1924年のパリ・オリンピックで400メートルの金メダリストになったエリック・リデルは宣教師として中国にわたり、1943年日本軍に拘留され収容所で病死しています。
リデルとライバルだったハロルド・エーブラムスの二人を描いたのが1981年の『炎のランナー』です。
 四月にスコットランドに行ったのですが、『炎のランナー』で選手たちが海岸を走るシーンが撮影されたセント・アンドリュースでは、今でも学生たちが海岸を走ってトレーニングするそうです。そして、それを見ると、他の学生たちは『炎のランナー』の曲を歌って からかうのだと教えてもらいました。

ユダヤ人のケンブリッジ大生ハロルドとスコットランドの宣教師リデル。ふたりとも1924年パリ・オリンピックの短距離選手として選ばれますが、100mの決勝が日曜日に行われると知り、安息日を重んじるリデルは100mの代表を辞退しようとします。しかし、イギリス・オリンピック協会の人々は祖国と王のため出場してメダルをと、 リデルに迫ります。その申し出をはねつけるリデル。結局400mに出場する予定の選手がその座を譲り、リデルは400mに、ハロルドは100mに出場して、二人とも金メダルを獲得する、という物語でした。

 今週はオリンピックと戦争、ということでご紹介してきましたが、オリンピック選手の映画というのはもっといろいろあります。主にアメリカ映画なので、アメリカの選手が強いものに偏っていますが。 金メダリストでないと、ダメなのかもしれない。
 「フェイスブック」に出てきた双子のボート選手、「フォックスキャッチャー」のレスリング選手、あたりが記憶に新しいところですね。
金メダル間違いなしというチームを破ったり、冷戦の時の米ソ対決、なんて映画も盛り上がるものでした。

 しかし、二回の世界大戦による中止と、戦争によるアスリートたちの死 をはずせば、一番の悲劇は1972年のミュンヘン・オリンピックでしょう。この事件を描いた映画は何本もありますが、その前後も含めて、世界史の中に位置づけて描いたのがスピルバーグ監督の『ミュンヘン』でした。

 1972年あたりも世界が揺れていましたが、それと似たような状況にこの1~2年なってきたような気がします。
 現在行われているリオ・オリンピックが無事に終わり、アスリートたちが再び戦争などで死ぬことがない世界であることを、強く望みます。

では、次は最新作をご紹介する「カミング・スーン」のコーナーです。

今週は8月11日から公開される「X Men アポカリプス」をご紹介しましょう。

ミュータントたちの戦いを描く「Xメン」シリーズは2000年から始まった「旧三部作」と2011年に始まった「新三部作」に分かれます。
「旧三部作」は2000年の「X-メン」2003年「X-MEN2」2006年「X-MENファイナルディシジョン」の三本。初老のプロフェッサーX率いるXメンとマグニートー率いるブラザーフッドが戦います。
「新三部作」は時代をさかのぼって、若き日のプロフェッサーXとマグニート、そしてXメンの誕生が描かれます。2011年「X-MENファーストジェネレーション」2014年「X-MENフューチャー&バスト」に続き、今回の「アポカリプス」は新三部作の最終作です。
 原作は1963年に、マーベル・コミックのスタン・リーが発表したアメリカン・コミックです。

 男子むけヒーローものアメリカン・コミックには、DCコミックとマーベル・コミックの二大系列があります。
DCコミックは戦前からあるもので、代表的なキャラクターは1938年に生まれたスーパーマンと1939年生まれのバットマンです。勧善懲悪でアメリカを背負って立つようなキャラクターは、戦時中はナチス相手に戦ったりもしていました。
対するマーベル・コミックは戦後、1961年に編集者兼原作者であるスタン・リーが始めた会社で、最初の作品は「ファンタスティック4」でした。マーベルが作り出すヒーローたちは人間臭く、悩みを持っていたり不平不満を口にしたり、必ずしも正義というものを信じていなかったりと、複雑なキャラクターを持っているところがDCコミックスのヒーローとの違いです。
どちらのコミックスも映画化されていますが、DCコミックスの勧善懲悪のスーパーマンとバットマンは時代にそぐわなくなり、ダークヒーローとして書き換えられ、映画もそれにしたがってリブートされ、ヒット、生き残りました。
対するマーベルコミックスのヒーローたちは、次々と映画化され、みんなまとめて「アベンジャーズ」になったりして、大儲けしています。マーベル系の実写映画には、カメオで必ずスタン・リーが出演しています。

Xメンのヒーローたちは、自分がミュータントであることに悩みます。
彼らは、子どものころから、ミュータント、つまり他の人とは違う力を持っている存在であることで、親に疎まれたり、家庭や社会や学校で迫害されたり、いじめられたりする経験をしてきました。
プロフェッサーXはそんな子供たちのための学校を作り、能力の活かし方、人としての生き方を教えています。子どもたちはここで初めて、仲間と出会い、自分は”モンスター”ではなく人間なのだと、心の平安を見つけ出すのです。
しかし、世界はミュータントに対する考え方や扱いを、政権の都合の良いようにコロコロと変えます。プロフェッサーXとミュータントたちはそれに翻弄されます。その挙句、業を煮やして普通の人間たちと戦う決心をしたのが、プロフェッサーの親友でありライバルのマグニートーでした。
旧三部作では、世界に戦いを挑んだマグニートーと、世界を守ろうとするプロフェッサーXの戦いが描かれるわけです。
そして、新三部作では、プロフェッサーXとマグニートーが、子どものころからどのように覚醒し、その考え方を育て、そして別れて行ったのかが描かれます。

 最終作である「X-MEN アポカリプス」は1983年を舞台にしています。
前作「フューチャー&パスト」では、2023年の人類滅亡の危機を救うため1973年に送り込まれたウルヴァリンが、対立していたプロフェッサーとマグニートーを説得し、手を組んだ三人は危機を回避させることに成功します。
その10年後、1983年。かつてエジプトで王として君臨していた最古のミュータント・アポカリプスが、5600年の眠りから覚め、くさった文明を浄化し、人類を滅ぼして”神”として新しい世界を築こうとします。アポカリプスは黙示録の4騎士と呼ばれるミュータント軍団を率いてX-MENに挑みます。
 Xメン シリーズが面白いのは、年齢も国籍もバックグラウンドも違うミュータントたちが、それぞれの能力を疎ましく思いながらも、折り合いをつけて、普通の人間のように生きたいと思っているところです。けれど、それが許されない時代になったり、利用しようとする人間が出てきたり、今回のように人類の滅亡を測る巨大な存在が現れたりして、戦わざるをえなくなる。そしてその時、かれらの能力が発揮され、敵と戦い、仲間を助け、ひいては人類を救うことになる。そして初めて、彼らは自分たちの能力が自分に与えられた貴重なものなのだと受け入れていくのです。

 原作は別にそこまで考えていないと思いますが、映画になった時に、この、「自分は変人で世の中に受け入れられない」という気持ちが「変わってていいじゃないか。それが自分だし、それが役に立つこともある」という風にポジティブにとらえられるようになるまでを描く、という風に変わりました。
 それは監督のブライアン・シンガーが、子どもの頃から変わり者と言われて孤立していた経験を反映したものだと思います。
 シンガーは旧三部作の1と2、新三部作の2を監督、今回は四回目の監督になります。
 
 アメリカにおける「コミック」というものは、日本と違って、あくまでも子どものもの、と思われていて、ハイティーンになってもコミックが好きだったりすると、それはオタクとして、スクールカーストの下の方に位置づけられちゃうわけです。つまり、変人としてはじき出されます。
 そういう少年・少女たちの気持ちをつかむ設定が、X-Menにはあるのです。

 アベンジャーズはメンバーがみんな大人ですが、X-Men、とくに新三部作は、X-menたちの若いころを描いているので、さらにティーンの心をつかむのですね。

新三部作の最終作なので、この後22年後、2005年の世界を描く、旧三部作一本目「X-MEN」へ橋を架けるような役割もあります。X-MENたちの過去とか、なぜ〇〇になったのか、など、これを見ればわかるようになっています。
 このさい、時間軸に合わせて最初から見直してみるのも面白いと思います。



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