スペース・オディティ -デヴィッド・ボウイ-

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 デビッドはインタビューでいつも、自分の音楽の原点は6歳まで暮らしたブリクストンにあると答えていました。現在のブリクストンは、魅力的なマーケットが毎日開かれているロンドンの下町です。ですが、デビッドが幼い頃はカリブ・アフリカ系移民の多い、ロンドンでも、もっとも治安が悪いと言われた地区の一つでした。


 「一歩家を出るとそこは毎日が、テーマパークのようなワンダーランドだった。通りにはさまざまな音楽がラジオから流れていて、さまざまな人種の人たちがさまざまな言葉を話しながら歩いていた。家の外にテーブルや椅子を出してみんながごちゃごちゃ、自分勝手に楽しそうにいろいろやっている。きょろきょろしていると必ず『おいぼうず、元気か?』と親しげに声をかけるおせっかいなおじさん、おばさんが沢山居た」


 「猥雑だけど魅力溢れる場所で、世の中というのは、多様な文化と多様な言語と多様な人種、肌の色の違う人たちが混ざり合って争いもなく暮らしているのは至極普通なことなのだと、五感で体験させてもらった。普通のイギリス家庭だと絶対に使われない組み合わせの色彩や、食べたことのない料理。カラフルで奇妙な品物や味わった事のない匂いが周りに溢れていた」


 食も含めた、デビッドの尽きることのない好奇心。
その核はブリクストンで培われたに違いありません。
溢れ出る愛するブリクストンでの豊かな思い出話を聞いていると、時が経つのを忘れました。
思い出話を聞きながら、どのようにして何事にも「フェアな視点」を持つようになり、それがデビッドの揺ぎない「フェアな精神」へとつながっているのだと思い至った事を、よく覚えています。


 ビートたけしさんがデビッドについて「頭の切り替えが早い。それは、客観的な自分をもう一人持っているって事じゃないかな」とコメントされたと聞きました。的確な表現だと思います。
デビッドはいつも自分の世界を俯瞰して見る事が出来た。その世界はとてつもなく大きく、気に入った場所を見つけると、躊躇なくノコノコと出かけて行ったのではないのかなあ。


 デビッドがベルリンに暮らしていたことは知られているけれど、1978年のほぼ一年間、ケニアに暮らしていた事はあまりみなさん、ご存じないのでは。
 「どうしてケニア」と私。
 「遠い国だったから。知り合いも居なかったし、白人の世界に暮らす黒人の人たちの気持ちを肌で実感したかったから」とデビッド。
 「どうでした?」と私。
 「多くを理解したつもりだが、それ以上に、納得できない事も多く、結局、どうやっても向かい合うすべてを咀嚼出来ない事だけは理解できた。でもね、普段の生活に何も支障はない。自分の肌が白いことも慣れれば忘れる。そして時折、自分の白い肌を見てとんでもなく驚く。違和感を通り越して、自分の肌が白いことに恐怖を感じる」とデビッド。


 残念ながら当時の私は、このような会話をさらに深めて続ける知恵もなければ、賢さもありませんでした。貴重な、貴重な時間だったはずなのに。
場所は今は取り壊されたホテルオークラのティールーム。人もまばらな午後でした。
ただ最後に、デビッドのパーソナル・アシスタントのココが、こう締めくくったのは、よく覚えています。
 「私には辛い体験だったわ。女性である事以上に、肌の色の違いへの恐怖は、白人社会で育った私にはどうやっても拭い去れなかったの。でもデビッドは凄いのよ。最後はもう、立派なケニア人になっていたものね。この人はどこにでも暮らせるの。それも至極自然に」

ココについてはデビッドの元奥方のアンジーが本の中で言及しているように、彼女が紹介し、出会ってからずっと二人は一緒。デビッドよりも一ヶ月若く、兄妹のような関係だったのだと思います。家族同様、最後までデビッドを看取ったと記事で読みました。
「母が急に産気づいて、NYのブルーミングデール・デパートで産まれた、私は初めての赤ん坊なのよ」
 バリ島で遺灰を撒いて欲しいというのがデビッドの遺言だったそうですが、ココも同じ思いなのかなあ。
話が逸れますが、遺灰を撒くというと、今一人、思い出す人がいますが、その話はまたいつか。(続く)

小林禮子 (通訳・翻訳者)

David Bowie - Let's Dance

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