「エンタメ通訳の独り言」(その五)デビッド・ボウイとの幸せな思い出1
小林禮子

 初対面がどのような場だったのか。それがその後相手とどのように向かい合えるかを、大きく左右すると思います。それを実体験させてもらったのが、デビッド・ボウイとの出会いです。デビッドとは、1970年代末、去年亡くなられた相倉久人さん(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E5%80%89%E4%B9%85%E4%BA%BA)との対談でお会いました。
 相倉久人さんは高名な音楽評論家であり、とてつもない知識人です。対談度に、聞いたことのない日本や海外のアーチストの名前や、歴史や文化を教えて貰いました。そんなある日相倉さんから「今度の相手はデビッド・ボウイだよ」と言われました。大学のオーケストラでバイオリンを弾いていた私は、いわゆるクラシック少女。デビッド・ボウイの事はほとんど知りませんでした。初めてピンク・フロイドの通訳をした時、ロンドン・フィルハーモニーと競演したミュージシャンと教えられ、彼らがクラシックの人たちだと思い、初日にホテルの前庭に積み上げられたスピーカーの山におったまげたアホですから。
 今のようにネットで事前に調べるなど出来ない時代。ほとんどデビッド・ボウイが誰かを分からないまま、対談に臨みました。
 私の前に座ったデビッドは、それはもう・・・。何も言いますまい。2時間の対談の間まるで魂を吸い取られたように私は、デビッドを見つめ続けました。この人はなんと美しいのだろうと思いながら。

画像: https://www.youtube.com/watch?v=7qr2SguaqtI

https://www.youtube.com/watch?v=7qr2SguaqtI


 対談内容をほとんど覚えていないのですが、とてつもなく知的で刺激的で、「ユーラシア大陸を軸として、日本と英国はシーソーのように文化的にも経済的にもアップダウンする」と言うような事だったと思います。その時、初めてエゴン・シーレを知り、マルセル・デシャンの名を知りました。その後デビッドは、相倉さんとのあの時の対談は本当に楽しく、忘れられないものの一つだと聞かせてくれました。
 きっと私はそんな相倉さんとの楽しい対談の思い出と共にパッケージされて、デビッドの頭の中に刷り込まれたのでしょう。1980年、寶酒造が初めて発売した焼酎「純」のCMに出演することになったデビッドはレコード会社を通して、通訳を私に依頼してくれました。代理店は随分と心配だったようで、事前に銀座で一杯やりましょうと担当者に誘われ、品定めをされました。
 こうして私は京都の老舗T旅館に一週間、デビッドと滞在することになりました。基本、どこでもついて行きました。デビッドがおしゃれなのはよく分かっていましたが、成田空港に到着した時、左右色が異なるカラフルなソックスを履いていた事にどきりとしました。また、ライブハウス磔磔に出かけた時には、毛沢東のようなグレイの人民服に帽子を被っていました。35年前です。斬新な選択でした。(続く)

PROFOUND TV - David Bowie is / デヴィッド・ボウイ・イズ

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