「エンタメ通訳の独り言」映画祭の思い出(その二)
ゆうばりに集った面々---小林禮子

 いくつもの映画祭の中でも、初回からその後の数年間何度も訪れて多様な経験をさせてもらった「ゆうばりファンタスティック映画祭」は、特に思い出深い映画祭です。
先日亡くなられた川島なお美さんが審査員を務めた年は、お嬢さんを連れたホウ・シャオシェン監督を始めとしてデニス・ホッパー、勝新太郎、ロジェ・ヴァディム監督と、特に華やかな顔ぶれだったことをよく覚えています。

画像: wikipedia

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 お嬢さんと言えば第一回の審査員委員長だったジョン・ヴォイドの娘として、父親と一緒に夕張にやってきたアンジェリーナ・ジョリーの印象も少々。飛行機の遅延のため、ヴォイド親子だけが映画祭初日の夜に札幌に到着することになりました。
誰もがオープニング準備に大忙しだったため、私が一人で二人を迎えに行く大役を仰せつかりました。どこか侘しいロビーで待っていると、大柄の元気なお父さんの後ろから、比較的小柄な娘が歩いて来ます。確かビバリーヒルズの高校に通っていると聞いていたのに、思いがけないほど地味な印象で、どこまでも普通の高校生に見えました。
荷物が多かったら別にタクシーを手配して荷物だけを運んでくださいと言われていたのですが、親子の荷物はそれぞれトランク一つ。夕張から乗って来たハイヤーに三人で乗り、夕張へと向います。

画像: http://yubari.org/article/27801022.html

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画像: http://ameblo.jp/audrey-beautytips/entry-11480820144.html

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「お疲れでしょう」と声をかけると父親は「まあね」と言いながら、しきりと開会式に出られず悪いことをした。申し訳ないと謝り、心から残念な様子でした。
娘はと言うと、我々の会話を聞いているのかいないのか、激しく降る雪を窓越しにじっと見ています。しばらくするとさすがに疲れたのか父親は寝息を立て、私も知らぬうちにうとうとして・・・で、ふと気付くと娘はまだ、じっと外を見ています。こんな時、どんな会話をすればよいのか。そもそも声をかけて良いものなのか。迷っているうちに、車は夕張のホテルの前に到着しました。

 娘はその後も、特に父親を避けているようでもないが、積極的に甘えるような事もなく、一定の距離を置いていました。娘にだけではなく、誰にも優しく面倒見のよい父親が何かの折に、こう話して聞かせてくれました。「娘とは一緒に過ごす時間がほとんどないんだ。いいチャンスだと思って今回誘ってみたら思いがけずOKしてくれて、いやあ、本当に嬉しいよ」と、ここまで書いてきましたが、ゆうばり映画祭の、私の一番の思い出は実はこの親子でもなければ、夕張のホテルで『パルプ・フィクション』の脚本を書いたクエンティン・タランティーノとの思い出でもありません。
牧場主の夫と姉と一緒に夕張にやって来てくれた、麗しのキム・ノヴァックです。
(続く)

ジョン・ヴォイト
1938年12月29日、ニューヨーク州ヨンカーズ生まれ。父はプロゴルファー。NYのカトリック大学で舞台美術、演出、演技を学んで60年に卒業。その後地方の舞台に立ちNYに戻って演技コーチに指導を受ける。やがてオフ・ブロードウェイを経て『サウンド・オブ・ミュージック』でブロードウェイ・デビュー。67年に出演した芝居でシアター・アワード賞を受賞した。それをきっかけにTVへの出演も多くなり、ハリウッドに渡って67年に「墓石と決闘」で映画デビューを飾る。これまでに、「真夜中のカーボーイ」(1969)、『帰郷』(1978)、「暴走機関車」(1985)でアカデミー賞主演男優賞に3度ノミネートされ、『帰郷』で見事受賞した。主な出演作に、「ヒート」(1995)、「ミッション:インポッシブル」(1996)、「エネミー・オブ・アメリカ」(1998)、「ナショナル・トレジャー」(2004)など。冒険活劇「トゥームレイダー」(2001)では、実娘にあたる女優、アンジェリーナ・ジョリーと共演を果たした。2001年に、ナショナル・ボード・オブ・レビューの功労賞を授与された。
http://www.allcinema.net/prog/show_p.php?num_p=7046

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