映画をメインにエンタテイメント業界の通訳を長く続けて来た私の独り言。
立ち止まってみなさまが耳を傾けて頂けるような内容にして行きたいと思います。
初めまして。どうぞ、よろしくお願いします。

映画祭の思い出(その一)


これまでいくつもの映画祭を経験しましたが、今年、2015年の東京国際映画祭の審査員長として、ブライサン・シンガー監督が来日することを知り、ブライアンを最初に見かけた、冬の日差しがまばゆい、サンダンス映画祭のカフェを思い出しました。1993年のことです。

画像: http://umikarahajimaru.at.webry.info/201112/article_40.html

http://umikarahajimaru.at.webry.info/201112/article_40.html

今はどうしているのか…知る由もありませんが、当時はコンペティション作品の監督全員が一同に会して、高校の教室ほどの大きさの部屋に、半円を描くように机の附いた椅子に座っていました。
私たちメディアはその前に、お行儀よく並べられた椅子へ座るようにと招き入れられます。
私たちの前に座っている監督たちは誰もが、緊張した面持ちでした。

監督たちの年齢は20代初めから50代初頭までと雑多。
一人ひとりの見つめながら、「神様は、アートの才能を平等には与えてくれない」と、漠然と思った事があります。


5年通った1993年は、私の初めてのサンダンス映画祭でした。
雪が降る中、試薬品のモルモットとなり、隣のベッドにいた素人の男性を主演に7,000ドルで製作したという、その年に観客賞を獲得した『マリアッチ』(その後、バンデラス主演でリメークされます)映画上映のチラシを友人たちと雪の中、派手なメキシカン・ポンチョを着て一生懸命に配っていた、無名のロバート・ロドリゲス監督の姿を良く覚えています。


そんな中で最優秀賞を獲得した『パブリック・アクセス』を引っさげて乗り込んできたブライアンは、すでに、注目の新人監督でした。

順番を待ちながらチラチラとブライアンを覗き見。まあ良くしゃべるオニイチャン、というのが第一印象です。彼がゲイだからではないでしょうが、通訳の私も相当なおしゃべりだと自負していますが、ブライアンには負けます。

画像: ブライアン・シンガー監督 wikipedia

ブライアン・シンガー監督

wikipedia


その後『ユージュアル・サスペクト』や『ゴールデンボーイ』、『X-メン』に『スーパーマン』と、作品公開の度に来日するブライアンとはずっと縁がありました。

「ユダヤ人である自分は、どうしても見ておきたい」と言う彼に同行して、広島原爆記念博物館に行った時、ほとんど話をせずにじっと展示物に見入っていたブライアンの集中力に、あらためて「やっぱ、この人一流の映画監督なんだ」と感動しました。
来日の合間に、ロサンゼルスで会ったりと、今回が10回目ほどの再会ですが、はてさて、ブライアン監督はどのように変わった、または変わっていなかったのか、近日中にご紹介出来たら嬉しいです。

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