アメリカの元副大統領アル・ゴア氏の環境問題を描いた『不都合な真実』で第 79 回アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞を受賞のデイヴィス・グッゲンハイム監督が、知られざる真実のマララとその家族の絆に迫ったドキュメンタリーが公開される事となった。

史上最年少でノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさん。
2012年、当時15歳だったマララと友人がスクールバスで下校途中に銃撃された衝撃的な事件。
一命をとりとめた彼女は、その後も、教育活動家として、マララ基金を設立。
そんな、マララさんをグッゲンハイム監督は、出生、父ジアウディンがその名に込めた想い、そして今の彼女を追っていきます。
“ふつう”の女の子が世界を変えようとしている―。

画像: 史上最年少でノーベル平和賞を受賞した、普通の少女マララさんをアカデミー監督が撮った『わたしはマララ』公開!

「わたしはマララ」

youtu.be

平和賞受賞記念スピーチ

Malala Yousafzai addresses United Nations Youth Assembly

youtu.be

慈悲深く慈愛あまねき神の御名(みな)において。


 陛下、ノルウェー・ノーベル賞委員会の皆さま、親愛なる姉妹や兄弟たち、本日は私にとって本当に幸せな日です。ノーベル賞委員会にこの貴重な賞の対象に選んでいただき、恐れ多い気持ちです。
 支援と愛情を与え続けてくださる全ての方に感謝します。世界中から今も届く手紙やカードをありがたく思っています。優しい励ましの言葉を読んで私は元気づけられ、鼓舞されています。

無償の愛を注いでくれる両親にも感謝したいと思います。私の翼を折らずに羽ばたかせてくれた父に感謝します。忍耐強くなることを教え、どんな時も真実を話すよう励ましてくれた母に感謝します。それがイスラムの真の教えだと強く信じています。

私は最初のパシュトゥン人、最初のパキスタン人、最初の若者としてこの賞を受けることをとても誇りに思います。きっと、いまだに弟たちとけんかしている最初のノーベル平和賞受賞者でもあるでしょう。あらゆる場所が平和になることを望んでいますが、私と弟たちはまだ努力している途中です。
私はまた、子どもの権利擁護に長年取り組んできたカイラシュ・サトヤルティとこの賞を分かち合えて光栄に思います。彼が取り組んできた時間は、私が生きてきた時間の実に2倍もの長さです。私たちが力を合わせ、1人のインド人と1人のパキスタン人が平和的に団結し、子どもの権利のために共に取り組めると世界に示せることもうれしいです。

 親愛なる兄弟や姉妹たちよ。私の名前はパシュトゥン人のジャンヌ・ダルクである(民族的英雄)マイワンドのマラライにちなんで付けられました。マララという言葉は、「悲嘆に暮れた」「悲しい」といった意味です。でも、私の祖父は少しでも幸せを呼ぶようにいつも「マララ、この世界で一番幸せな女の子」と呼んでくれました。そして本日、重要な目的に向かって私たちは共に立ち上がっており、私は本当に幸せです。


 この賞は私だけのものではありません。教育を求める、忘れ去られた子どもたちのためのものです。平和を求める、おびえた子どもたちのためのものです。変革を求める、声なき子どもたちのためのものです。
 私は子どもたちの権利のために立ち上がり、子どもたちに声を上げてもらうためにここにいます。今は彼らを哀れむときではありません。教育を奪われた子どもを目にするのが最後となるよう行動に移すときなのです。


 私は人々が私のことをさまざまな表現で語ることに気付きました。
 ある人たちは、タリバンに撃たれた少女と呼びます。
 権利のために闘った少女と呼ぶ人もいます。
 今では「ノーベル賞受賞者」と呼ぶ人もいます。
 私が知る限り、私はただ全ての子どもが良質の教育を受けるよう望み、女性が平等な権利を得られるよう望み、世界の隅々まで平和であるよう望む、一生懸命で頑固な人間にすぎません。

 教育は人生の恵みの一つであり、人生に欠かせないものの一つでもあります。これは私の人生、17年間の経験で分かったことです。私の故郷であるパキスタン北部のスワト渓谷で、私はいつも学校を愛し、新しいことを学ぶことを愛していました。特別な日には、友達と植物ヘナの色素で手を彩ったことが思い出されます。花や模様ではなく、数学の公式や方程式を描いたものでした。
 私たちは教育を渇望していました。なぜなら私たちの未来はまさに教室にあったからです。私たちは一緒に座り、本を読み、学んだものでした。私たちはこぎれいな学校の制服を着るのが好きで、大きな夢を見ながら座っていたものです。私たちは、両親に誇りに思ってほしかった。私たちも勉強で秀でて、いろいろなことを成し遂げられると証明したかったのです。男の子にしかできないと思っている人もいますから。 物事は同じようには続きませんでした。私が10歳の時、風光明媚(めいび)な観光地スワトは、突如としてテロの舞台となりました。400以上の学校が破壊され、女の子は学校に通うのを禁じられました。女性はむちで打たれ、罪のない人々が殺されました。私たちの誰もが苦しみました。そして私たちの美しい夢は、悪夢に変わったのです。
教育は、権利から犯罪へと変わりました。
しかし、私の世界が突然変わった時、私の中の優先順位も変わりました。
私には二つの選択肢がありました。
一つ目は、沈黙したまま殺されるのを待つこと。
二つ目は、声を上げて殺されること。
私は後者を選びました。声を上げることにしたのです。

テロリストは私たちを止めようとし、2012年10月9日に私と私の友達を襲撃しました。でも、彼らの銃弾は勝てませんでした。
 私たちは生き延びました。そしてその日から、私たちの声はより大きくなる一方でした。
 私が自分の話をするのは、それが特別だからではなく、むしろ特別ではないからなのです。
 多くの少女に共通した話なのです。
 本日、私は彼女たちの話もします。ここオスロには、私と同じ経験をした友達や、パキスタン、ナイジェリア、シリアの友達も来てくれています。私の勇敢な同志であるシャジアとカイナト・リアズは、あの日スワトで私と共に銃撃されました。彼女たちも痛ましいトラウマを経験しました。パキスタンから来てくれたカイナト・ソムロはひどい暴力と虐待に苦しみ、兄弟が殺されましたが、屈することはありませんでした。
 そして、私がマララ基金の活動を通じて出会い、今では姉妹のような少女たちです。
シリア出身の勇敢な16歳のメゾン、彼女は今ヨルダンの難民キャンプに暮らし、テントを回りながら女の子や男の子たちが学ぶのを手助けしています。私の親友のアミナはナイジェリア北部出身です。そこでは(イスラム過激派)ボコ・ハラムが、ただ学校に行きたいと願っている少女たちを脅し、拉致しています。
 私はハイヒールの高さを加えても身長約157センチです。
1人の少女、1人の人間としてここにいますが、1人で声を上げているわけではありません。私は大勢(の代弁者)なのです。
 私はシャジアです。
 私はカイナト・リアズです。
 私はカイナト・ソムロです。
 私はメゾンです。
 私はアミナです。私は学校に行けない6600万人の少女なのです。

人々はよく私に、どうして教育が特に女の子にとって重要なのか尋ねます。
私の答えはいつも同じです。
 私が(イスラム教の聖典である)コーランの最初の2章から学んだのはイクラという言葉で、「読みなさい」という意味です。そして「ペンによって」という意味のヌーン・ワルカラム。
国連で昨年お話しした通り「1人の子ども、1人の教師、1本のペン、そして1冊の本が世界を変えられる」のです。
 

今日、世界の半分では急速な発展や近代化、開発が見られます。
しかし、非常に古い問題である飢餓や貧困、不公平、紛争で何百万人もがなお苦しんでいる国々があります。
 実際、第1次世界大戦から1世紀が過ぎた2014年ですが、100年前に何百万もの命を失った際の教訓を私たちが十分学んでいないことをあらためて思い知らされています。
 何十万もの罪のない人々が命を失う紛争が今もあります。シリアやガザ、イラクでは多くの家族が難民となっています。ナイジェリア北部ではいまだに学校に行く自由のない女の子たちがいます。パキスタンとアフガニスタンでは、自爆攻撃や爆弾で罪なき人々が殺されています。
 アフリカでは、多くの子どもたちが貧困のため学校に行けません。
 インドとパキスタンでは、多くの子どもたちが社会的なタブーのために教育の権利を奪われたり、児童労働を強制されたりしており、少女が児童婚を強いられたりもしています。

 私と同い年のとても仲の良い級友の1人は、勇敢で自信に満ちた少女で、医者になることを夢見ていました。しかし、彼女の夢は夢のままで終わりました。12歳で結婚させられ、彼女自身がまだ子どもだった時に息子を産みました。わずか14歳の時です。彼女はとても良い医者になっただろうと思います。
 でも、それはかないませんでした。彼女が女の子だったからです。
 彼女の話こそ、私がノーベル賞の賞金をマララ基金に託す理由です。世界中の女の子たちに質の高い教育を与える手助けをし、指導者たちに私やメゾンやアミナのような女の子を支援するよう呼び掛けるためです。この資金は最初に、私の心のよりどころであるパキスタン、特に私の故郷スワトとシャングラでの学校建設のために使われます。
 私の村では、いまだに女の子が通える中学校がありません。友達が教育を受け、夢をかなえるための機会を得られる学校を建てたい。
 私はそこから始めます。でも、それでおしまいではありません。全ての子どもたちが学校に行くのを見届けるまで、私は闘い続けます。銃撃されて死線をくぐり抜けた後、私はより強くなったと感じます。誰も私を、あるいは私たちを止められないと分かったからです。今や私たちは何百万人(もの仲間)になり、共に立ち上がっているからです。

親愛なる兄弟、姉妹たちよ。
変革をもたらした偉大な人々、例えば(米公民権運動指導者の)マーチン・ルーサー・キングや(南アフリカで黒人解放闘争を主導した)ネルソン・マンデラ、(貧しい人々の救済に尽くした修道女)マザー・テレサや(ミャンマーの民主化運動指導者)アウン・サン・スー・チーは、かつてこの場に立ちました。彼らと同じように、カイラシュ・サトヤルティと私がこれまでしてきたことやこれから取り組むことが、長く続く変革をもたらしてほしいと思います。

 私の大いなる望みは、児童教育のための闘いをこれで最後にすることです。これを解決し、最後にできるよう、皆さんには団結して私たちの取り組みを支持してほしいと思います。
 繰り返しますが、私たちは既に正しい方向に多くの歩みを重ねてきました。今こそ飛躍の時です。
 教育がいかに重要か理解するよう指導者に求める時ではありません。彼らは既に知っているのです。彼らの子どもたちは良い学校に入っています。今こそ行動を起こすよう彼らに求める時です。
 世界の指導者たちに対し、結束し教育を最重要課題とするよう求めます。

 15年前、世界の指導者たちは国連ミレニアム開発目標という一連の地球規模の目標を定めました。それからの年月で、一定の成果は見られました。学校に行けない子どもたちは半減しました。
しかし、世界は初等教育の拡充だけに目を向け、進展は全員に行き渡りませんでした。
 来年、2015年には、次の一連の目標である持続可能な開発目標を決めるため、世界中の代表が国連に集まります。来るべき世代のための世界の大きな目標を設定することになります。全ての子どもたちに無料で良質な初等および中等教育を保証するため、指導者たちはこの機会を捉えなければなりません。
 現実的でないとか、費用が掛かりすぎるとか、あまりに困難だと言う人もいるでしょう。不可能という声すらあると思います。でも、世界はより大きなことを考えるべき時なのです。

親愛なる兄弟、姉妹たちよ。
いわゆる大人の世界は理解するでしょうが、私たち子どもには分かりません。「強い」といわれる国々は、戦争を起こす上では非常に力強いのに、なぜ平和をもたらす上ではあまりに弱いのか。銃を渡すことはとても簡単なのに、なぜ本を与えるのはそれほど大変なのか。戦車を造るのは極めて易しいのに、なぜ学校を建てるのはそんなに難しいのか。

 21世紀の現代に生きる私たちは、不可能なことはないと信じています。月にだって行けるし、火星にもそのうち着陸するかもしれない。ですから、この21世紀に、誰もが良質な教育を受けられ るという夢もかなうのだとの決意を持たなければならないのです。
平等と正義、そして平和をみんなにもたらしましょう。政治家や世界の指導者たちだけでなく、全 員が貢献する必要があります。私も、あなたも。それが私たちの義務なのです。
だから、立ち止まらず、努力しなければなりません。
私の仲間である子どもたちに、世界中で立ち上がるよう求めます。


親愛なる姉妹、兄弟たちよ。最後になることを決める最初の世代になりましょう。
空っぽの教室、失われた子ども時代、生かされなかった可能性。
これらを私たちでもう終わりにしましょう。
少年や少女が子ども時代を工場で過ごすのは、もう終わりにしましょう。
少女が児童婚を強いられるのは、もう終わりにしましょう。
純真な子どもが戦争で命を落とすのは、もう終わりにしましょう。
教室が空っぽのままであり続けるのは、もう終わりにしましょう。
教育は権利ではなく犯罪だと少女が言われるのは、もう終わりにしましょう。
子どもが学校に行けない状況は、もう終わりにしましょう。
終わりにすることを始めましょう。
私たちで終わりにしましょう。
今ここで、より良い未来を築きましょう。
ありがとうございました。

出典元
(オスロ共同)
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201412/20141211_73023.html

This article is a sponsored article by
''.