「新世紀映画論」(第4回)  林海象


連載のペースがあまりにも遅いので、編集部にも叱られ、そしてこの連載を読んで頂いている読者の方々にも見捨てられたと思うが、連載を続ける。

私事だが、この一年間は私の映画のタイトルではないが「我が人生最悪の時」が続き、もはやいかなる災いにも驚かなくなった自分がいる。そんな石のような心にも響くのは、やはり映画である。日本においての映画製作状況はかわらず厳しいが、そんな状況の中でも映画を創りたい人々は後を絶たない。それは映画が未だ強い力を発する魔術であることの証である。

さて話を本題に戻そう。

”映画は100年前に完成され、それからまだ進歩していない”

と前回、私は書いた。
そしてリミュエール兄弟「ラ・シオタ駅への列車の到着」1895年と、「マッドマックス〜怒りのデスロード」が、120年の時を隔てても同じ映画であることを検証する。とも書いた。だから検証してみよう。

1895年「ラ・シオタ駅への列車の到着」は、シオタ駅のプラットホームに蒸気機関車が到着して、その列車から観客たちが降りてくるという50秒ほどの短い映像である。物語はなく(ここ大事です)、ただ列車がやってくるだけの映画である。

ラ・シオタ駅への列車の到着(L'arrivée d'un train en gare de La Ciotat)

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120年も前の映画なので、この映画が上映された時の反応は、今では都市伝説とされている「映画を観た人は、本物の蒸気機関車が来たのかと思い、立ち上がり逃げ惑った」つまり映像が人々の正気を失わせたという説があり、その真偽のほどはあまりにも過去なのでわからないが、ただ映画を初めて観た人々の興奮状態は今でも容易に想像はつく。
もし自分が映画というものを知らず、その映像を観たらどんな反応をするか想像してみればよい。
私なら、本物の列車が屋内に飛び込んできたと思って、叫び逃げ惑う。だって、映画を観たことがなく、本物の列車と映像の列車の区別などつかないのだから。そして映像に映る列車が本物ではないと知った時、私の正気はさらに狂う。
列車が本物でないなら、あそこに存在する列車はいったい何だ? 現実に現れた幽霊か悪魔なのか! と頭の中はまるで洗濯機のように渦をまいて、さらなる幻影の城へと私の正気は引き吊り込まれていく。さらにその映像がピラピラの白布に写っているものだと確認した時は、まさに狂気の最高潮。
そしてその記憶は私の人生の中でいつまでも消えず、記憶という心のスクリーンにいつまでもその映像を映し出す。映画を観ていない人たちにそのことを話しても「そんなのは嘘か幻だ」と言われ続けながら。つまりこれが映画の魔術である。
そして私たちは120年たった今でも、同じ魔術にかけられている。
映像によって人々の正気を狂わせ、興奮とともに記憶の中に深く刻まれる、映画という魔術の中にいる。

映画の時間を120年進めて、現代に戻してみよう。
昨今話題の「マッドマックス〜怒りのデスロード」2015年 ジョージ・ミラー監督作品である。
私もこの映画を2Dと3Dで2回観た。ご存知のとおり、マッド・マックスシリーズは今まで3本製作(1979年〜1985年)され、シリーズ全ての監督をジョージ・ミラー、主演をメル・ギブソンが演じた、大ヒットシリーズである。その映画が30年後にリニューアルされ、2015年に発表されたが、そのシリーズ第4作は、今までのマッドマックスとは全く違う映画であった。
主演のメル・ギブがトム・ハーディーに変わった事も大きな変化ではあるが、それより何より今までのマッドマックスと一番違う点は、この映画には物語がないということだ。物語がないと書くと語弊があるなら、この映画は物語によりかかっていない映画、もっというと物語を自ら捨てた映画である。

映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』予告1【HD】2015年6月20日公開

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前3作のマッドマックスも、マックスがフォード・ファルコンXB(V8インターセプター)600馬力を暴走させるカーアクションシーンが見どころであるが、今回の「怒りのデスロード」には極端にいうとカーアクションシーンしかない。
物語はいたって簡単で、女連れで逃げるマックスチームを、イモータン・ジョーとウォーボーイチームが追いかける。逃げ場を失ったマッドマックスチームが来た道を戻り、イモータン・ジョーチームとぶつかる。これだけである。
つまり行って帰るだけが物語である。物語のよくある伏線や紆余曲折まったくなしである。その代わりといってはなんだが、物語より重要視されているのが、キャラクターとディティールである。
キャラクターの意味は登場人物たちのキャラクターという意味でもあるが、この映画でいうキャラクターとは、それらを凌駕する武装された車たちのキャラクターであり、そのディテイールの強烈なリアリティーである。ここに書くリアリティーとは、それが現実に存在するリアリティーではなく、映画の中だけに存在するリアリティーが、私たちの記憶の中にある心のスクリーンをよび起こす、映像魔術のリアリティーである。

私たちはこの映画を見て、圧倒的な物体のリアリティーに驚愕する。
そしてその物体である武装車の軍団、逃げる機関車のようなトレーラー、によって、まるで120年前の人々が「ラ・シエタ駅への列車の到着」を見たかのような驚きを現代に覚えるのである。
かつての機関車というキャラクターとディティールが、映像によって人々の正気を失わせたかのように、それから120年たった私たちも「マッドマックス〜怒りのデスロード」
によって、少なからず正気を失い映画に狂気する。
つまり120年の時を隔てた2本の映画が、観客たちにかける魔術はまったく同じものであるといえる。
私たちは未だその映画の魔術から冷めやらないばかりが、一層その魔術を求めているのだ。

”映画は100年前に完成され、それからまだ進歩していない”

言い換えると

”映画は100年前に完成され、今も進歩し続けている”

それでは映画が目指す進歩とはいったい何であろうか?

(第五回に続く)

林海象監督略歴
1957年京都生まれ。
映画を独学で学び、1985年「夢みるように眠りたい」
で監督デビュー。
1990年「二十世紀少年読本」「ZIPANG」を渋谷単館劇場と東宝で同時公開。
1993年〜1995年「私立探偵 濱マイク三部作」を発表し、当時の単館系興行
記録を塗り替える。
2002年「探偵事務所5シリーズ」製作開始。
劇場版3本「楽園/失楽園」「カインとアベル」「THE CODE〜暗号」
短編50本が製作された。
2007年京都造形芸術大学で映画学科を設立、
初代学科長となる。
2013年新世紀映画「彌勒 MIROKU」を発表。
生演奏付で全国を巡業する。
2014年東北芸術工科大学 映像学科長に就任。
新作は短編映画「GOOD YEAR」(主演/ 永瀬正敏・月船さらら)。
映画革命家である。

画像: 林海象監督略歴 1957年京都生まれ。 映画を独学で学び、1985年「夢みるように眠りたい」 で監督デビュー。 1990年「二十世紀少年読本」「ZIPANG」を渋谷単館劇場と東宝で同時公開。 1993年〜1995年「私立探偵 濱マイク三部作」を発表し、当時の単館系興行 記録を塗り替える。 2002年「探偵事務所5シリーズ」製作開始。 劇場版3本「楽園/失楽園」「カインとアベル」「THE CODE〜暗号」 短編50本が製作された。 2007年京都造形芸術大学で映画学科を設立、 初代学科長となる。 2013年新世紀映画「彌勒 MIROKU」を発表。 生演奏付で全国を巡業する。 2014年東北芸術工科大学 映像学科長に就任。 新作は短編映画「GOOD YEAR」(主演/ 永瀬正敏・月船さらら)。 映画革命家である。

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