京都文化博物館フィルムシアター、戦争と映画−戦意高揚映画から反戦映画まで。8月16日は『戦ふ兵隊』(1939)。
「ニュース映画みたいに派手なのではなく、もっと戦争の下積みとか裏側を描いてくれ」との軍の意向のもと、武漢攻略作戦を同行取材。彼らの見たものは、夫の戦死を知らない妻からの手紙をその遺骨の前で読む兵士、その手紙の中に入っていた子供の写真。
行軍に耐えられず、路傍に捨てられ、夕日の中くずれ倒れる軍馬、廃虚となった部落に呆然とたたずむ難民、目隠しされた地蔵・・・。
倦怠、索漠、徒労に果てる行軍、廃虚、病と、言葉では言い尽くせない苦難をなめ続ける、前線の日本兵と、中国民衆たちにもたらされた深い傷跡。
完成後「戦ふ兵隊」ではなく「疲れた兵隊」ではないか、と揶揄され、公開中止された。
‪#‎ミニシアター‬ http://www.bunpaku.or.jp/exhi_film/

画像: 京都文化博物館フィルムシアター、戦争と映画−戦意高揚映画から反戦映画まで。8月16日は『戦ふ兵隊』(1939)

京都文化博物館フィルムシアター、戦争と映画−戦意高揚映画から反戦映画まで。8月16日は『戦ふ兵隊』(1939)

京都文化博物館フィルムシアター、戦争と映画−戦意高揚映画から反戦映画まで。
8月16日は『戦ふ兵隊』(1939)。

京都文化博物館 映像情報室 The Museum of Kyoto, Kyoto Film Archive
京都文化博物館フィルムシアター、戦争と映画−戦意高揚映画から反戦映画まで。
8月16日は『戦ふ兵隊』(1939)。

「ニュース映画みたいに派手なのではなく、もっと戦争の下積みとか裏側を描いてくれ」との軍の意向のもと、武漢攻略作戦を同行取材。彼らの見たものは、夫の戦死を知らない妻からの手紙をその遺骨の前で読む兵士、その手紙の中に入っていた子供の写真。行軍に耐えられず路傍に捨てられ夕日の中くずれ倒れる軍馬、廃虚となった部落に呆然とたたずむ難民、目隠しされた地蔵・・・。倦怠、索漠、徒労に果てる行軍、廃虚、病と、言葉では言い尽くせない苦難をなめ続ける前線の日本兵と、中国民衆たちにもたらされた深い傷跡。完成後「戦ふ兵隊」ではなく「疲れた兵隊」ではないか、と揶揄され公開中止された。
‪#‎ミニシアター‬ http://www.bunpaku.or.jp/exhi_film/

『戦ふ兵隊』
1939(昭和14)年東宝作品/66分・モノクロ・記録映画
監督・編集:亀井文夫


『戦ふ兵隊』
1939(昭和14)年東宝作品/66分・モノクロ・記録映画
監督・編集:亀井文夫 製作:松崎啓次 撮影:三木茂、瀬川順一 録音:藤井慎一 音楽:古関裕而 字幕:進八郎
1931(昭和6)年9月、満州事変勃発、日本の15年におよぶ戦争の幕があけた。
当時の映画界にあって、劇映画に比して教育、記録等、後に“文化映画”と総称される分野の映画はあまり商売にならない、添え物的存在であった。

しかし、これらの分野の映画は戦争が深化するにつれ、国策のプロパガンダ、軍部からの委嘱製作と徐々にその勢力を増し、1939年に施行された映画法では映画興行時の文化映画上映が義務づけられるに至る。満州事変以降、国策的文化映画は次々と製作され、また、1937年、日中戦争勃発以降は、勇壮なかけ声と共に突撃する兵士を捉えた劇画調の“ニュース”映画も続々と供給される。

上海上陸の翌年、記録映画『上海』(1938)が東宝系の直営館で劇映画と同格で公開され、大ヒットとなった。
この映画は、日本軍上陸2カ月後の上海と、その戦跡をたどる記録映画で、ナレーション内容にこそ国策的言葉が散見されるが、淡々とした語り口と、軍歌調を廃した音楽、都市上海の傷跡、中国人の許さざるまなざしがちりばめられ、冷徹で乾いた映像は従来の戦勝記録的映画とは異色の感動を銃後の民衆に与えた。

この『上海』を作ったのが監督・亀井文夫であり、カメラマン・三木茂であった。
そして2人は陸軍省報道部の後援で翌1939年、本作『戦ふ兵隊』を製作する。

「ニュース映画みたいに派手なのではなく、もっと戦争の下積みとか裏側を描いてくれ」との軍の意向もあり、武漢攻略作戦にあたり、監督、キャメラ、録音技師等撮影班が前線部隊に同行する。彼らの見たものは、夫の戦死を知らない妻からの手紙をその遺骨の前で読む兵士、その手紙の中に入っていた子供の写真。行軍に耐えられず路傍に捨てられ夕日の中くずれ倒れる軍馬、廃虚となった部落に呆然とたたずむ難民、目隠しされた地蔵・・・。

倦怠、索漠、徒労に果てる行軍、廃虚、病と、言葉では言い尽くせない苦難をなめ続ける前線の日本兵と、中国民衆たちにもたらされた深い傷跡。彼らの体験した前線には“表”も“裏”もなかった。一切のナレーションを排し30枚足らずの字幕を挿入、シンクロ録音された音声と抑えた調子の音楽と共に、映像をモンタージュし、亀井は“戦ふ”兵隊を素直に表現した。

完成後、本作の試写会は軍部、マスコミを招き数多く開催され、評判も上々であったが、一般公開直前に、当局は上映禁止を通告する。
本作は戦争の悲惨なるを暗示する内容であり、描かれた兵隊は、
「“戦ふ”兵隊どころではなく“疲れた”兵隊」であるのが理由であった。

この後、文化・ニュース映画は国策プロパガンダ、戦意昂揚に止まらず、虚偽の演出による情報操作の道具として、不幸な歴史を辿る。


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