画像: Ishida Tetsuya “Recalled” acrylic on paper with panel  145.6x206cm 1998 “Awakening” acrylic on paper with panel  145.6x206cm 1998 collection of Shizuoka Prefectural Museum of Art  ©yuzo ueda -cinefil

Ishida Tetsuya “Recalled” acrylic on paper with panel 145.6x206cm 1998
“Awakening” acrylic on paper with panel 145.6x206cm 1998 collection of Shizuoka Prefectural Museum of Art ©yuzo ueda -cinefil

第56回ヴェネチア・ビエンナーレが、5月9日から11月22日まで開催されている。
ナイジェリア生まれのキュレーター、オクイ・エンベゾー氏による展覧会コンセプトは、「All The World's Future」(全ての世界の未来)と題して、世界から136名のアーティストが選出された。
日本人アーティストは石田徹也(2005年に他界)のみであった。

筆者は石田徹也の展覧会コーディネーターとして、5月5日の招待日に合わせて、ドバイ経由でヴェネチアに臨んだ。
果たして世界の未来を私は見ることができるのだろうか、それは終わりのない物語の始まりなのか、あるいは全ての不幸を私たちが受け入れる想像の世界なのか。

ヴェネチア・ビエンナーレは、1895年から開催第一次世界大戦で、1916年と1918年の展覧会が中止された後、1944年と1946年は第二次世界大戦の期間は、混乱により中止となった。

近・現代美術が欧米を中心として知られる中、イタリアでの第56回目の芸術の祭典は、芸術の持つ普遍的な意思の現れとなって、何を訴えていたのだろうか。
ヴェネチア・ビエンナーレは国別のパビリオンでの展示とセントラルパビリオンの企画展と、二部構成によっている。

メイン会場の石田徹也の会場

メイン会場の石田徹也の会場を訪れると、多くの観客は通り過ぎることなく佇み、機械と少年が絡みあいもがく、抜け出すことのできない現実と葛藤する世界へと引きずり込まれていた。
文明批判を示唆するかのように石田徹也の世界、教室にいる数名の学生たち、頭部が顕微鏡となって教育が人間の全てを決定する制度として、教育から落ちこぼれていく少年は制度という社会の流れから堕ちていくことを暗示させる。

顕微鏡は、その少年の隅々まで拡大して判断し、偏差値という数字に置き換えられる。
管理される数値から私たちは逃れることはできない。数値によって未来も決定される教育の制度はただひたすら自らの歩みを止めてしまう。
ここに未来はあるのだろうか、感情や感性は創造する世界の中で重要な遺伝子であるはずだ。

しかし数値化された現代の教育制度は、エンターとディレイトという選択しか、用意されていない。少年の目に明るさを見ることはない。
虚無的で無関心な少年、コピーされた無表情な少年が出来上がっていく。

画像: Irina Nakhov ©yuzo ueda -cinefil

Irina Nakhov ©yuzo ueda -cinefil

画像: Tovias Zielony、Olaf Nicolai、Hito Steyerl、JasminaMetwaly、Philip Rizk ©yuzo ueda -cinefil

Tovias Zielony、Olaf Nicolai、Hito Steyerl、JasminaMetwaly、Philip Rizk ©yuzo ueda -cinefil

ロシアのパビリオン

ロシアのパビリオンでは、長い列ができていた。
会場には巨大なガスマスクを付けた頭部の立体作品、Irina Nakhov(エミリア・カバコフ)の作品が強烈に焼きつく、マスクの中の人の目は映像によって映しだされて、観客を見下すかのように権威的に動く。
チェルノブイリ原子力発電所のイメージやチェチェン共和国との紛争、そして現在がウクライナ政府軍と親ロシア派勢力が対立する、東部の『ナチュラル・ガス・ヨーロッパ』の報道に沸く。

この作品はアートが政治と絡み、社会を批判する、アートは社会の為にあり、アートは教育と同じく人間社会の制度として成り立つ、ヨゼフ・ボイスの「社会彫刻」やハンス・ハーケの「政治的コンセプチャル・アート」を連想させる。

ボイスにしろ、ハーケにしろ、ドイツのアーティストたちは自らの歴史と立ち向かい現在から未来を照射するメッセージの強い作品の傾向がある。

ドイツのパビリオン

その足でドイツのパビリオンに向かった。
5人のアーティスト、Tovias Zielony、Olaf Nicolai、Hito Steyerl、JasminaMetwaly、Philip Rizkによるインスタレーションがある。

ドイツの会場の入り口にはいきなり狭い階段があり、その建物の3階分らしき最上階まで登り詰めると、1階にあるべきインフォメーション・ルームにたどり着く。
観客は逆走したような階段、時間の穴から抜け出し、そしてさらに別の狭い階段で地下室に降りて行くように設計されていた。

最下位の会場は閉じられた壁と床材が剥がれ、足の下で瓦礫の音となって、ガラガラと反響した。
閉じられた扉は開くことなく観客、訪問者は不能な声なき声をさとし再び階段を登る。
身体を通じて無力な世界、あたかも崩壊と秩序の連鎖がかつてのベルリンの壁をメタファーとして伝えたかったのだろうか、瓦礫となった床材は、歩くことを拒否するコードとなって、私はその場でバランスを失った。

画像: Shioda Chiharu “The Key in the Hand” Installation ©yuzo ueda -cinefil

Shioda Chiharu “The Key in the Hand” Installation ©yuzo ueda -cinefil

日本のパビリオン

日本のパビリオンに足早に向かい、塩田千春の作品の中を回廊する。
吊るされた16万個以上のカギが1つ1つの赤い糸によって連なり、カギは一人一人をイメージしていると言う。中央には浮遊するかの如く、木製の古びた舟が展示されていた。

赤い糸は「絆」でもあり「傷跡」でもあるかのように、血管が体から引き抜かれたように、吊るされている。
私は体を少しだけ動かせば空中の真っ赤な血管に吸い込まれていく恐怖を感じた。
真赤な雲が、原子力から放出された放射能にも見えたのだ。

糸と糸は絡みつき二度と解かれることがない質問を浴びせ、数ミリの糸によって噤まれた空間と扉を開けるための、腐りかけたカギは、雨のように降り注いでいた。
それは未来へ続く扉のカギなのか。

画像: Moon Kyungwon & Jeon Joonho “The Ways of Folding Space Flying”©yuzo ueda -cinefil

Moon Kyungwon & Jeon Joonho “The Ways of Folding Space Flying”©yuzo ueda -cinefil

韓国パビリオン

日本のパビリオンのすぐ隣の、韓国パビリオンでは、13年も前からの友人、全濬晧(チョン・ジュノ)、文敬媛(ムン・ギョンウォン)のユニットによる展示だった。

建物の外観が、大きな巨面ガラスに覆われて、近未来的な映像を映しだす。
会場内に入れば、さらにアーサー・C・クラークとスタンリー・キューブリックが描く「2001年宇宙の旅」のように回転するリングに、少女がジョギングしている。

主人公は、新世紀エヴァンゲリオンの綾波レイにも似た少女がPCを起動し、外部と交信している。宇宙空間か異次元で起きた日常を想定し、SF小説のように饒舌に語られていた。
果たして私たちは未来を見ることができたのだろうか。

画像: ©yuzo ueda -cinefil

©yuzo ueda -cinefil

同日の夜、満たされることのない未来を味わい、オクイ・エンベゾー主催のレセプション会場にパボット(水上バス)に乗って向かった。

船上から見える水上都市のヴェニスの町は、ラグーンに浮かぶ木葉のように揺らいで見えた。
揺れるパボットはその波間をアメンボーのように行き交う。
夕日によってほのかにバーミリオンに色付く波、岸辺に漂う白い波、エンジン音が大きく唸りいつしか次の町へと私を運んでくれた。

15~6世紀に建てられた、古城内のようにしつらえたホテルの階段を登る。
黒くくすんだ天井、ガラスが砕けて降り注ぐ灯り、シャンデリアが今日一日の出来事を癒してくれるかのように釣り下がっていた。

テーブルの上に並べられたシャンパンを口に注ぐと、ブルーチーズの塊をボーイが小皿にのせ差し出した。
夜遅くまで夜会は続けられていたが、私はリド島へ最終便に間に合うように、再びパボットに乗り込んだ。波が大きく弧を描き、パボットが暗闇に浮かび、再び大きなエンジンを響かせて、次の町へ私を運んでくれた。
アートは眠らない。

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